第八話 無事だった話
無事だった、と思った。
それは事実だし、錯覚でもある。
怪異に関わったあと、
何も起きなければ、人はそれを「解決」と呼ぶ。
彼女は泣かなかった。
取り乱さなかった。
翌日も、普通に学校に来た。
それだけで、十分だったはずだ。
「ありがとう」
昇降口で、彼女は言った。
名前を呼ばれた。
ちゃんと。
「何もしてないよ」
「してくれた」
彼女は靴を履き替えながら、笑う。
「距離、守ってくれたでしょ」
「……うん」
「それだけで、楽になった」
胸の奥が、少し温かくなった。
――救えた。
その言葉が、静かに座る。
昼休み。
校庭のベンチで、僕は空を見上げていた。
影は、普通。
匂いもしない。
名前も、ちゃんと呼ばれる。
久しぶりに、
「何も起きない一日」だった。
「成功体験、危ないよ」
隣に、誰かが座った。
見覚えのない顔。
でも、声の調子が同じだ。
「覗きですか」
「観測」
その人は、僕の表情を見て言った。
「今、君ね、
“救った側”の顔してる」
「悪いですか」
「悪くない。
でも、それ怪異が一番好きな顔」
風が吹く。
校庭の影が揺れる。
「怪異はね、
救われたって思われるのが嫌い」
「……嫌い?」
「だって、終わるから」
胸の温度が、少し下がる。
「終わったことにされると、
居場所がなくなる」
「でも、彼女は楽になったって」
「“今は”ね」
その人は、立ち上がる。
「人の心は、戻る」
「怪異も?」
「特に」
嫌な沈黙が落ちる。
「じゃあ、どう思えばいいんですか」
「救った、じゃなくて」
その人は、振り返らずに言った。
「無事だったって思う」
それだけ言って、去った。
その日の放課後、
彼女を校舎裏で見かけた。
誰かと話している。
距離は、近い。
――近すぎる。
足が、止まる。
触れない距離。
守ったはずの、境界。
彼女が、こちらに気づいて手を振った。
笑顔は、前より明るい。
なのに。
足元の影が、
彼女のほうへ、伸びていない。
代わりに、
僕の影だけが、
不自然に、濃くなっていた。
そのとき、はっきり分かった。
救えたと思ったのは、
彼女じゃない。
自分だ。
胸の奥で、
何かが、静かに鳴った。
――これは、次に壊れる音だ。




