第七話 触れない距離
戻った翌日、学校は何事もなかった顔をしていた。
教室。
チャイム。
騒がしい昼休み。
逃げていた痕跡は、誰の記憶にも残っていない。
残っているのは、僕の中だけだ。
それでいい。
怪異は、いつもそういう形で始まる。
「……近づかないで」
声をかけられたのは、保健室の前だった。
同級生の女子。
名前は知っている。
呼べる。ちゃんと呼べる。
なのに、彼女は一歩下がった。
「触らないでほしいの」
「何もしてないけど」
「してる」
彼女は、胸元を押さえる。
「あなた、触れてないのに、
距離だけ縮めてくる」
意味が、すぐに分かった。
「……近づくと、苦しい?」
「ううん。逆」
彼女は、苦笑する。
「安心する。
でもそれが、怖い」
保健室の白い光が、影を薄くする。
「私ね、人に頼れないの」
「普通じゃない?」
「普通の人は、頼れない自分を
ここまで嫌わない」
彼女は、腕を抱く。
「でもあなたの前だと、
頼らなくても、支えられてる感じがする」
「それは……」
慰めの言葉を探して、やめた。
「……怪異?」
「たぶん」
彼女は、あっさり言った。
「触れない依存。
距離だけで成立する安心」
「それ、壊したほうがいい?」
「壊したら、私が壊れる」
正解はない。
僕は、一歩下がった。
距離を、元に戻す。
彼女の表情が、わずかに歪む。
「でも、近づきすぎるのも違う」
僕は言う。
「触れない距離を、選べるなら」
「……選べるかな」
「今、選んだ」
彼女は、しばらく黙っていたが、
やがて、小さく息を吐いた。
「あなた、不思議」
「よく言われる」
「怪異みたい」
「……かもね」
彼女は、少し笑った。
「でも、嫌じゃない」
「それは、危険だよ」
「知ってる」
彼女は、保健室のドアを開ける。
「だから、ここまで」
距離が、固定される。
触れない。
離れすぎない。
怪異は消えなかった。
でも、暴れもしなかった。
それでいい、と僕は思った。
廊下の窓に映る自分の影は、
今度は、ちゃんと僕の動きに合わせていた。
ただ一つだけ、違う。
影が、
誰かに触れない距離を、保っていた。




