第十話 触れてはいけない側
頼られなかった。
それが、想像以上に効いた。
怪異は、困っている人のところに現れる。
少なくとも、僕はそう思っていた。
でもその日は、違った。
誰も、僕を見なかった。
困っている気配はある。
噂も、違和感も、確かに漂っている。
なのに、呼ばれない。
「……選ばれなかったか」
自嘲気味に呟くと、
影が、少し遅れて動いた。
図書室。
あのときと同じ時間帯。
棚の奥で、本が一冊、床に落ちていた。
拾い上げる。
タイトルはない。
前に、残り香を置いた、あの本だ。
ページをめくると、
文字が、増えていた。
――「助けて」
たった三文字。
でも、それは――
僕に向けられたものじゃない。
「……おかしいな」
その瞬間、
背後で、空気が歪んだ。
「それ、読めちゃうんだ」
振り返ると、
知らない生徒が立っていた。
同じ制服。
同じ校章。
でも、名前を思い出せない。
「君、困ってる?」
「別に」
即答。
でも、声が軽すぎる。
「じゃあ、その本は?」
「落ちてただけ」
彼は笑う。
笑顔が、薄い。
「それ、俺のじゃない」
「でも、呼んでる」
「君を?」
首を振る。
「違うよ。
俺を呼んでる」
空気が、冷える。
「じゃあ、なんで僕が読めた」
「さあ」
彼は、少し考えてから言った。
「君が、もう向こう側だから?」
心臓が、一拍、遅れる。
「君さ」
彼は続ける。
「最近、誰かに頼られた?」
「……」
「ないでしょ」
図星だった。
「怪異ってね、
“助けて”って言えない人のところに行く」
「じゃあ、君は」
「言えない」
彼は、あっさり言う。
「言えないし、
言わないし、
言ったら壊れる」
本の文字が、滲む。
「じゃあ、どうする」
「どうもしない」
それが、正しい逃げ方だった。
――でも。
「……代わりに、僕が触れる」
口に出した瞬間、
影が、僕の足元から離れた。
「それ、越えちゃダメな線だよ」
「知ってる」
でも、知っているだけだった。
「君は、呼ばれてない」
「呼ぶ」
本を、閉じる。
「助ける、じゃない」
僕は言う。
「終わらせる、でもない」
一歩、近づく。
「一緒に持つ」
彼の笑顔が、崩れた。
「それ、楽になると思う?」
「思わない」
距離が、ゼロになる。
触れた。
瞬間、
世界が、二重になる。
重なった感覚。
彼の不安。
僕の残り香。
――混ざる。
「……っ」
彼が、息を詰まらせる。
同時に、
僕の中で、何かが欠けた。
名前。
役割。
境界。
「これで、君は?」
「……まだ、ここにいる」
彼は、震えながら言った。
「君は?」
「わからない」
それで、よかった。
怪異は消えなかった。
でも、形を失った。
代わりに、
僕の影が、少し薄くなった。
「次は、しないで」
彼は言う。
「君が壊れる」
「たぶん」
彼は去っていった。
振り返らずに。
図書室には、静けさだけが残る。
僕は、壁にもたれた。
胸の奥が、空っぽだ。
でも、嫌じゃない。
――これが、
立ち向かうってことかもしれない。
正解じゃない。
安全でもない。
それでも、
逃げなかったという事実だけが、
ここに残っていた。




