第二十一話 名を食うもの
それは、最初から“呼び方”を間違えていた。
「――おまえ」
河川敷を離れて、
住宅街に入ったところで、
背中に落ちた声。
名前じゃない。
代名詞。
なのに、
引っ張られる。
足元の影が、
後ろに伸びる。
踏ん張る。
「……来たな」
振り返る。
街灯の下。
人の形をしているけど、
顔が、何度も書き直された跡みたいに歪んでいる。
「おまえの、名前」
そいつは言う。
「うまそうだ」
ぞっとする。
これは、
今までの“寄ってくる怪異”じゃない。
狙っている。
「奪うのか」
「食う」
即答。
「呼ばれなくなったやつの名前は、
薄くてまずい」
「……」
「でも」
歪んだ顔が、
にやりと動く。
「結び直した名前は、
甘い」
逃げ道を探す。
家々の隙間。
角を曲がれば、人通りがある。
逃げられる。
でも。
これは、
逃げただけじゃ終わらない。
「条件は?」
「一つ」
怪異が、一歩踏み出す。
「名乗れ」
「……」
「正しい名前で」
胸の奥が、
強く鳴る。
呼べば、
食われる。
呼ばなければ、
ここは越えられない。
「拒否したら?」
「削る」
「どうやって」
「少しずつ」
影が、
足首に絡む。
冷たい。
「逃げる」
そう言って、
一歩、下がる。
怪異が、嗤う。
「逃げられると思うか?」
「逃げるのは、
立ち向かう準備だ」
地面を蹴る。
走る。
角を曲がる――
その瞬間。
「――!」
正しい呼び方が、
背中に突き刺さった。
視界が、白くなる。
世界が、
こちらを固定しようとする。
危ない。
歯を食いしばる。
名を、抱え込む。
背負うな。
戻るために、使え。
足を止める。
振り返る。
「……条件を、変えよう」
「ほう?」
怪異が、楽しそうに近づく。
「名乗らない」
「なら、食えない」
「代わりに」
一歩、前に出る。
「呼ばせる」
怪異が、動きを止める。
「俺を、正しく呼べ」
「……」
「食うなら、
ちゃんと認識しろ」
沈黙。
怪異の輪郭が、
揺れる。
名前を食うくせに、
名前を呼ぶ責任は負いたくない。
そこが、弱点だ。
「呼べないなら」
低く言う。
「奪えない」
怪異が、舌打ちする。
「面倒なやつだ」
「そうだよ」
一拍。
「逃げるし、
戻るし、
立ち向かう」
怪異が、後退る。
「覚えておけ」
歪んだ声。
「次は、
準備してくる」
影が、
地面に溶ける。
静寂。
心臓の音だけが、
残る。
名は、ある。
削られていない。
でも。
狙われた。
これは、
個別の怪異じゃない。
同類が、いる。
街灯の下で、
深く息を吐く。
逃げられた。
戻れた。
――次は。
立ち向かう場所を、
選ばないといけない。
名前を、
食われないために。




