第二十話 正しい呼び方
呼ばれた瞬間、足が止まった。
「――……」
音が、違った。
イントネーション。
間。
息を吸う位置。
全部が、正しい。
夕方の河川敷。
風の音に紛れて、
それは、はっきり聞こえた。
振り返らない。
反射で、そう決める。
正しく呼ばれるということは、
こちら側に固定されるということだ。
「逃げるの、得意だね」
それでも、声は追ってくる。
河原の影が、水面に伸びる。
「でもさ」
一拍。
「本当の名前、
そんな使い方する人、初めて見た」
逃げ道は、ある。
橋の下。
人の気配もある。
でも。
立ち向かう番だ。
「誰だ」
「観測者、でいいよ」
姿が、浮かぶ。
人の形。
でも、輪郭が少し遅れる。
「君の名前」
観測者は言う。
「ちゃんと、結び直したね」
「返してもらった覚えはない」
「返してない」
笑う。
「自分で拾った」
嫌な評価だ。
「それで?」
「確認」
観測者は、一歩、近づく。
距離が、縮む。
「名を名乗らないと救えない」
「名を名乗ると削れる」
「それでも、使う」
全部、見られている。
「で」
観測者が言う。
「どこまで、行く?」
胸の奥で、名前が、鳴る。
前より、低い音。
「役目にはならない」
「ならないね」
「境界にも立たない」
「立てないようにする?」
挑発。
でも、もう分かっている。
「逃げる」
「うん」
「戻る」
「それから?」
深呼吸。
「立ち向かう」
観測者が、初めて、黙った。
風が、強くなる。
「いいね」
小さく言う。
「それが、“正しい呼び方”だ」
意味が、分からない。
「名前はね」
観測者は続ける。
「固定するためのものじゃない」
「じゃあ、何だ」
「戻すためのもの」
観測者の輪郭が、
少し、薄くなる。
「君は」
一拍。
「呼ばれても、戻れる」
それだけ言って、消えた。
河川敷に、ただの風。
でも。
胸の奥の音は、前より、確かだった。
名前は、武器じゃない。
呪いでもない。
帰り道の標識だ。
携帯が、鳴る。
知らない番号。
でも、今度は分かる。
名乗らなくていい。
でも、
名を持ったまま、行ける。
「……話、聞く」
逃げて、戻って、立ち向かう。
正しい呼び方で。




