第十九話 名を呼ぶ条件
最初から、そう言われた。
「名前を、教えて」
路地裏。
雨上がりの匂いが、重い。
彼女は、濡れた地面に座り込んでいた。
制服。
見覚えはない。
でも、影が――
彼女の前にだけ、集まっている。
「呼ばれないと、来ないの」
「何が」
「これ」
彼女の影が、指先に絡みつく。
逃げろ。
頭が、そう言う。
ここは、条件が悪い。
「名前」
彼女は、繰り返す。
「それが、鍵だから」
怪異は、“誰か”に呼ばれることで、
境界を越える。
でも、人も同じだ。
名乗らなければ、踏み込めない場所がある。
「……それは」
喉が、渇く。
「簡単じゃない」
彼女は、少し笑った。
「知ってる」
「じゃあ」
「だから、頼んでる」
影が、濃くなる。
時間が、ない。
逃げるなら、今。
戻るなら、あと。
――順番を、守れ。
深呼吸。
「条件がある」
「なに」
「一度だけ」
「うん」
「呼んだら、離れる」
「約束する」
彼女の影が、ぴたりと止まる。
待っている。
胸の奥で、名前が、鳴る。
背負うな。
戻るために、使え。
「――」
名を、名乗る。
音が、落ちた。
路地の空気が、一段、深くなる。
影が、彼女から剥がれる。
人の形を取る前に、霧みたいに散る。
「……来た」
彼女が、息を吐く。
「ありがとう」
一拍。
「ちゃんと、聞こえた」
足元が、ぐらつく。
世界が、こちらを認識し始めている。
危ない。
「もう、行く」
「うん」
背を向ける。
呼び止められる。
「ねえ」
「なに」
「忘れないよ」
それは、祝福でも、呪いでもない。
ただの、事実。
路地を抜ける。
角を曲がった瞬間、胸の奥の音が、弱まった。
使った。
削れた。
でも、消えていない。
名は、条件付きで、残った。
――これでいい。
名乗らなければ、救えない人がいる。
名乗れば、自分が、危うくなる。
逃げて、戻って、立ち向かう。
その間に、名を使うかどうかを選ぶ。
それが、今の僕のやり方だ。




