第十八話 本当の名前
名前は、音だった。
忘れられても、書けなくなっても、完全には消えない。
胸の奥で、小さく、鳴り続ける。
それに気づいたのは、何も起きない夜だった。
怪異もいない。
助ける相手もいない。
逃げる必要も、
立ち向かう理由もない。
ただ、
自分だけが、いる。
「……」
鏡を見る。
顔は、ある。
でも、輪郭が曖昧だ。
名前を捨ててから、自分を“指す言葉”を使っていなかった。
――だからだ。
逃げるために、削った。
立ち向かうために、残した。
その結果、
自分自身が、空白になった。
「ここか」
声がした。
例外の彼女じゃない。
あの観測者でもない。
――自分だ。
鏡の中の口が、遅れて動く。
「呼ばれないままでも、やっていけると思ってた」
「思ってたな」
自分と会話するなんて、正気じゃない。
でも、
逃げない。
「立ち向かうには」
鏡の中の“僕”が言う。
「名乗らないといけない場面が、必ず来る」
胸が、鳴る。
あの音だ。
「一回だけでいい」
「一回?」
「戻すんじゃない」
一拍。
「思い出すだけ」
鏡に、手を伸ばす。
触れない距離。
でも、境界は越える。
胸の奥の音が、形になる。
――名前。
誰かに呼ばれた記憶。
怒られたときの音。
笑われたときの抑揚。
「……ああ」
口が、動く。
声が、出る。
本当の名前。
その瞬間、
世界が、少しだけ重くなった。
戻ったんじゃない。
結び直しただけ。
鏡の中の“僕”が、満足そうに頷く。
「これで」
「何が」
「逃げても、戻ってこれる」
次の瞬間、その姿は消えた。
部屋に、一人。
でも、空白じゃない。
名前は、背負うものじゃない。
帰ってくるための印だ。
携帯が、震える。
知らない番号。
でも、出る。
「……助けて」
声が、震えている。
逃げ道は、ある。
今夜じゃなくてもいい。
でも。
「場所、教えて」
名乗らない。
呼ばれもしない。
それでも、自分が自分だと、分かっている。
逃げて、それから、立ち向かう。
名前は、胸の奥で、静かに鳴っていた。




