第十三話 書き留める人
彼女は、ノートを持っていた。
新品じゃない。
角が丸くなって、何度も開かれた跡がある。
「これ」
放課後の保健室。
カーテン越しの光が、白い。
彼女は、ノートを差し出した。
「あなたのこと」
心臓が、一拍遅れる。
逃げるべきだった。
でも、立ち止まった。
「名前、何だっけ」
彼女は言う。
「聞くたび、忘れる」
正直だった。
それが、いちばんきつい。
ノートを開く。
最初のページに、大きく書いてある。
「忘れてはいけない人」
その下に、箇条書き。
・背が高い
・よく一人でいる
・怪我をしていることが多い
・話すと、安心する
最後の行が、震えていた。
「名前は?」
「……書いてない」
「書けなかった」
彼女は、目を伏せる。
「書こうとすると、ペンが止まる」
怪異じゃない。
でも、影響は出ている。
「だから、工夫した」
ページをめくる。
日付ごとの記録。
今日、話したこと。
言われた言葉。
そのときの気持ち。
どれも、丁寧だ。
「明日になったら、
たぶん、これを書いた“人”も、ぼやける」
「それでも?」
「それでも、残したい」
彼女は、笑った。
無理してない。
でも、覚悟してる顔。
「だって」
一拍。
「助けてもらったって、事実は、消えないでしょ」
胸が、痛い。
救えたと思ってしまう話の、その先だ。
「お願いがある」
彼女は、ノートを抱える。
「名前、言わなくていい」
「……」
「代わりに」
彼女は、指で自分の胸を指した。
「ここに、残って」
無茶な話だ。
でも。
僕は、逃げなかった。
「条件がある」
「うん」
「無理だと思ったら、手を離す」
「約束する」
彼女の影が、ちゃんと足元にある。
まだ、こちら側だ。
「じゃあ」
僕は、ノートの余白に書いた。
文字じゃない。
形でもない。
“感触”。
ページに触れたとき、少しだけ、温度が移る。
「なに、これ」
「忘れてもいい印」
「思い出そうとしたとき、
胸が、少しあったかくなる」
彼女は、目を丸くした。
「ずるい」
「そうかも」
保健室の時計が鳴る。
別れの時間だ。
「明日、覚えてる?」
「わかんない」
でも。
彼女は、ノートを胸に抱いて言った。
「それでも、探す」
廊下に出ると、僕の名前が、
また一つ、軽くなった。
でも。
完全には、消えていない。
誰かが、覚えようとしている限り。




