第十二話 呼ばれない名前
彼は、自分の名前を三回言い淀んだ。
「……ほら、俺、えっと」
指で机を叩く。
リズムがずれる。
そのたびに、空気が薄くなる。
放課後の図書室。
人はいない。
けれど静かすぎて、
“何かがいる”感じだけは、はっきりあった。
「昨日さ、母さんに呼ばれてさ」
「うん」
「振り向いたのに、
母さん、誰もいないみたいな顔して」
笑おうとして、失敗する。
「名前、呼ばれなかった」
それは、始まりの合図だ。
「最近、声が届かない」
「聞こえてない?」
「聞こえてるはずなのに、“俺じゃない”みたいな」
机の上に置かれた彼の影が、椅子の脚に絡まっている。
ほどけない。
「なあ」
彼は、僕を見る。
「俺、まだここにいるよな?」
即答できなかった。
いる。
でも、定着していない。
――名前が、錨なんだ。
呼ばれることで、人はこの世界に留まる。
それが削れると、浮く。
「大丈夫」
僕は言う。
「今は、まだ」
その“まだ”が、どれくらい短いかは言わない。
「助かる?」
「……無事にはできる」
「救われる?」
「それは、約束できない」
彼は、少し安心した顔をした。
それが、いちばん怖かった。
怪異は、安心の隙間に入り込む。
ぱら、と本が落ちる。
誰も触っていないのに。
ページが、勝手にめくられる。
そこに書いてあったのは、人名の索引。
――一文字ずつ、消えていく。
「なに、これ」
「見るな」
遅かった。
彼の名前の行が、白く、削れていく。
「……俺の、だ」
声が、軽い。
もう、半分向こうだ。
逃げろ。
そう言うべきだった。
でも。
僕は、一歩近づいた。
触れない距離を、越えた。
「聞いて」
低く、はっきり。
「君の名前を呼ぶ」
彼が、目を見開く。
「一回だけだ」
「……うん」
胸が、軋む。
これは、代償の選択だ。
「――◯◯」
名前を呼んだ瞬間、空気が、鳴った。
図書室の影が、一斉に引き剥がされる。
彼が、息を吸う。
「……あ」
目に、焦点が戻る。
索引のページが、音もなく閉じた。
成功。
そう思った。
けれど。
立ち上がろうとして、膝が崩れたのは、僕だった。
「え? お前?」
「……大丈夫」
でも、彼の口から出た次の言葉で、
分かった。
「ありがとう」
一拍。
「……えっと」
名前が、呼ばれない。
胸の奥で、何かが、削れる。
彼は助かった。
少なくとも、今日は。
その代わり。
僕の名前が、彼の世界から、一つ消えた。
それでも。
立ち上がる。
逃げて、戻って、立ち向かう。
それしか、もう残っていなかった。




