テンプルトン町…薔薇の名前(前)
ギネスの工房は、テンプルトンの町外れの中小ストリートの一角にある。
町の一番外側を巡る田舎道が、建物の向こう側を走っている。そこから先には、既に、クロフォード伯爵領の大部分を占める緑の丘陵地帯が広がっていた。
最寄りの停車場で馬車から降りた三人連れは、早速、ギネスの工房の扉に近づく。
すると、いきなり野太い声が工房の中から響いて来た。
「一見さん、お断りだ! 帰りやがれ!」
工房の主は、馬車の音、即ち来客に気付いていたのだった。
工房に更に接近した三人――マティとルシールとキアランは、工房から聞こえて来た声の主を、一斉に注目した。
声の主は、内部を仕切っているカウンターの向こう側に、背を向けて座っていた。そこには、宝飾細工のデザイン設計のためなのであろう、大きな製図台がデンと鎮座している。
工房のそこら中の壁には注文書や設計図と思しき様々な大きさの紙がピン止めされており、一見して雑然とした印象を与えている。しかし、工房の床は頻繁に掃除されているのか、なめたように綺麗だ。
いかにも頑丈そうな実用一辺倒の大きな戸棚が幾つか壁際に据え付けられており、一部の開いている引き出しの中に、様々な工具が見える。戸棚の一つは書棚として使われているようで、業務用ファイルや資料と思しき物がズラリと並んでいる。
部屋の奥の方を更に仕切るカーテンの裏には、貴重な宝飾品の類を保管するのであろう、本格的な金庫が見え隠れしていた。
――『ロイヤル・ストーン』宝飾店が誇る、トップレベルのベテラン職人・ギネス。
黒いボサボサ頭、後ろからも明らかに見て取れる盛大なヒゲ面、そして熊のような体格と雰囲気の持ち主だ。
「昔かたぎの職人さん……」
「ガミガミ・アントンみてえだ」
ルシールは絶句し、マティは感心した。キアランは無言のままであった。
このむくつけき大男の手が、あの美しく、繊細かつ緻密な宝飾細工を次々に生み出していたのである!
マティが早速、障害となっているカウンターに、身軽な動きでよじのぼった。
「レナード・カフスを作ったの、ギネスだろ? 新年社交でスッゲェ評判だったってさ! ダレットのオバハンを覚えてる?」
ギネスは図面を前に、何かしら悩んでいた様子である。ギネスは苛立たしそうに、シャツの袖をまくり上げた毛深い腕を振り回した。
「あァんだと? 人間のツラと名は忘れろ! この虚しき世間に覚えても無意味だ」
「それって哲学かい、おっさん」
カウンターの上に鎮座したマティは、明るい茶色の目をキラキラさせ、元気一杯に突っ込んだ。よほど気に障るツッコミだったらしい。遂にギネスが振り返り、目を引き剥いて怒鳴った。
「うるせえガキだな! 手が空いたら放り投げるぞ、首、洗ってろ!」
ウッカリ振り返った拍子に目に入った三人の姿――マティとルシールとキアラン――が、それなりに珍しい存在だったのか、ギネスはそのまま、訝しそうな顔になって見入って来た。
改めて正面から眺めてみると、ギネスは実にもっさりと毛深い、熊のようなヒゲ面の中年男である。ボサボサとした太くいかつい眉を寄せてはいたものの、しかし、その眼差しは、驚く程に柔らかく繊細だ。この男、強面の割に、内面に詩人を飼っているらしいと見える。
ひとまず『ギネスの注意を引く』という目的を達したマティは、生真面目な顔つきになり、大先輩の技術者に敬意を表して、速やかにカウンターから降りた。これでも、名家の御曹司としてのマナーは心得ているのである……ただし、子供バージョンである。
半身をねじって椅子の背に肩ひじを置き、ギネスはフンと鼻を鳴らした。更に野太く低い声でうなる。
「変な三人組だな、黒に茶に栗かい。五秒で説明しろ、私は忙しいんだ」
ルシールは、即座に反応した。
最初の二秒で手提げ袋から小箱を取り出す。次の一秒で小箱の蓋を開けながらギネスに迫る。同時に口を開く。
「このブローチを作ったのは、あなたでございますか?」
きっかり五秒で完了。いきなりの質問に、ギネスも一瞬、目が点になったのだった。
「ホントに五秒で説明したね……」
マティは感心しきりである。キアランも無言でルシールを眺めるのみだ。ルシールも、やる時はやるのであった。
ギネスはルシールの勢いに気を呑まれたまま、素直にアメジストのブローチを調べ始めた。繊細な宝飾細工を扱う手つきは、やはりプロと言うべきか、極めて慎重だ。
流麗なラインで切り取られた、バラの花の形。そのラインを彩るのは、繊細なアメジストの粒。
ギネスは相変わらず、ボサボサとした眉根を寄せて威嚇中の熊のような顔になっているものの、その眼差しには、次第に、戸惑いと驚愕の色が浮かび始めていた。
やがて、ギネスは顔を上げた。
「確かに私が注文で作ったブローチだ……26年前の二月受注、制作期間七ヶ月なり」
「すげー記憶力」
マティは、まじまじとギネスを眺めるばかりだ。ルシールはドキドキしながらも、質問を重ねた。
「誰が注文を?」
「私は納品済みの客のツラと名前を忘れちまうんだよ。頭の配線が、生まれつきイカれてる」
ギネスは顔をしかめ、仕方無さそうに自分の頭を指差して見せた。ギネスの脳みそには、記憶パターンがまだらであると言う、いささかの欠陥があったのである。
「顧客台帳がある筈です」
キアランが静かに指摘した。
ギネスは一瞬、キョトンとした顔でキアランを眺め……やがて納得の表情を見せた。
むくりと立ち上がると、まさしく熊であるかのように工房の中をのしのしと動き回り、熊が蜂の巣を探っているかのように、奥の書棚に手を突っ込み、引っ掻き回す。
「良く気付くな、黒エナメルは」
「ギネスの頭が、別仕様なだけだと思うけど」
即座に突っ込むマティなのであった。
やがてギネスは、一番古い台帳を取り出して来た。
「作品七番、九月納期。これだな、昔は納品時の確認に直筆のサインを頂いてたんだ。刻み文字の注文もあった。『愛しいアイリスへ、結婚の記念に、L』……」
事のついでのように付け加えられた説明の内容に、ルシールは一瞬、息を呑んだ。
少し震える手で台帳を受け取り、該当するサインを確かめる。マティもカウンターの上に身を乗り出し、一緒にのぞき込んで来た。
「R・ローリン……」
「家名の方のローリン! レオポルドじゃ無いんだ……!」
キアランも台帳をのぞき込み、納品書に書かれた受領サインに注目する。意外に流麗な筆跡だ。
――この筆跡は……?
キアランは目を見張り――そして、次の瞬間には、鋭く息を呑んでいた。
――まさか。
キアランは急に身を返すと、ギネスの工房を飛び出した。
「急用が出来た……確認する必要がある」
いきなりのキアランの行動に、ギネスは勿論、マティも呆気に取られていた。ギネスとマティが、慌てながらも次々に工房を飛び出し、二人で並んで、表の通りを確認する。
キアランは既に馬上の人となって、あっと言う間に遠ざかって行くところであった。
「急に何だ? 顔色、変わってたけど……」
ギネスは、呆気に取られた熊さながらに唸るのを忘れて、ポカンとして呟くのみである。
通りに出て来ていたクロフォードの馬車の若い御者が、戸惑ったように帽子に手を掛けつつ、ギネスの方とキアランの方に、交互に視線をやった。
「クロフォードの町に行って来るとか、何とか。一時間も経たずに、戻って来られるんじゃ無いかと思いますが」
暫く外を窺っていたマティは、やがて、工房の中に残っているルシールの方を、クルリと振り返った。
「どうする? ルシール……新聞に尋ね人の広告を出す?」
しかし、ルシールは、心ここにあらずだった。台帳に記されたサインを、ボンヤリと眺めているばかりだ。
「……何だか訳が分からない……正式に結婚した筈なのよ。母は何故、『アイリス・ローリン夫人』じゃ無かったの? 何故、『ライト』名のままだったの?」
口では疑問形を重ねてはいたが、次第に、ルシールの心の中に、黒いシミのようなものが――確信を伴う絶望感が、広がっていった。
*****
思い出されるのは、昨日の大広間で飛び出して来た、ウォード夫人の言及だ。
――レオポルドこそが実の父親だと言う、恐るべき可能性。
そして同時に、レオポルドが否認するように、アラシアが主張するように、『レオポルド以外の胡乱な誰か』という可能性も、恐ろしい事に――半分は、確実らしい。
プレイボーイ貴族が、身元を隠すための偽名を使って、平民クラスの若い娘を弄ぶ事は昔から良く聞く話だ。そして大抵の場合、男性側は、その騙し討ちも同然の手法と手際の良さを称賛されるが、女性側は、誰からも祝福される事の無い妊娠と言う結果と共に、全てを失ってしまう。
恋に恋している間は、まだ幸いだ。だが、憧れと現実は、違う。
恋愛が終わる、その時。
結婚が成立しているか否かは、博打である。
とりわけ貴族社会に接触するとなると、賭けに失敗した場合、男性側はエロスと言う名の憧れを終わらせるだけで済むが、女性側は、一生続く社会的立場の低下と、名誉失墜のリスクを負わねばならないのだ。
現在、クロフォード直系の第一の血族として名誉を得ているレオポルド。ダレット夫人となったレディ・カミラは、まさに勝者だ。敗者となり、『ふしだらな女』と言う評価に付いて回る諸々を恐れて、地元を逃げ出すしか無かったのであろうアイリス。
貴族社会と言う『現実』が決定する、その格差は――途方も無く、大きい。
――庭師として、植物が成長していく長い時間を考える事の多かった母が、男性の一時的な美貌や財布の中身に、目がくらむような女性だったとは、とても思えないけれども。
それでも、若い頃のレオポルドには。或いは『レオポルドでは無い胡乱な誰か』には。
――それ程の、何かがあったのだろうか。
一生の愛を捧げ、人生を投げ打っても良いと思う程の何かが。
実際、アシュコートでは再婚の話も無かった訳では無いが、アイリスは一生涯、独身を通していたのだ……
*****
マティはルシールの顔色の悪さを見て取っていたが、まだまだ子供という事もあって何も言う事が思いつかず、困ったような顔で、ルシールの周りをソワソワと歩き回っていた。
表に出ていたギネスは、工房の入り口から、マティとルシールの様子をそっと窺っていた。いかついボサボサ眉をしかめ、物騒なまでに不機嫌な熊のような顔になっている。
やがて、ギネスは控えめにフンと鼻を鳴らし、近づいて来たクロフォードの馬車の若い御者に、声を掛けた。
「聞いてみりゃ、深刻らしいな」
「相続問題に名誉の問題も紛糾しまして……父親を突き止めて、母親の名誉を証明しないといけないそうなんですよ」
御者は困惑した様子でうなづきながらも、分かる限りの事情を説明したのであった。




