レスター邸…春宵の庭
宵の刻。
気温は下がっていたが、春の季節という事もあり、それ程きつくない。
アシュコート伯爵領、辺境に近いレイバントンの町――
この町の郊外に、目を疑うような豪邸が建つ。レイバントンの町を代表するトップクラスの名家の一つ、レスター家が住まう邸宅である。
ややカッチリとした、モダンな新古典風の館だ。大規模なカントリーハウスと同様、壮麗な正面玄関を持ち、上から見ると、だいたいHの形をしている。
レスター邸は暗いアースブラウン系の外壁を持つため、宵闇が広がる時間帯になると、建物の外観は分かりにくくなる。しかし、窓を持つ部屋のほとんどに照明が灯っており、その窓の数の多さが、レイバントンの町の華やかな夜景の一部となっていた。
レスター邸の広々とした敷地の一角に、一族の墓地がある。庭木に囲まれた静かな空間だ。
風がしきりに吹くせいか雲が多く、空に見える星々の数は少なかった。墓地を囲む庭木の葉群が、終わりのないお喋りのようなざわめきを続けている。そのざわめきの中から、夜目にも際立つ白いショールをまとい、幽霊さながらに一人さまよう令嬢が現れた。
レスター邸の墓地を一人さまよう令嬢は、やがて、一つの墓の前で足を止める。その墓石には、このように書かれてあった。
――シルヴィア・G・スミス夫人、此処に眠る――
一陣の風が吹き、墓の前に立った令嬢の白いショールが風になびく。
他の庭園スペースと同様、墓地の各所には石畳で舗装された小道の各所に夜間照明用のランプがあり、煌々と小道を照らし出している。令嬢の見事な金髪が、ランプの光を反射してキラリと光った。
やがて、令嬢の他に、もう一人の人影が墓地に現れた。
「やはり此処だったのか……アンジェラ」
アンジェラは、先刻から既に親しい知人の接近を察知していた。この夜中に驚きもせずに、声のした方を振り向く。
「久し振りね、オズワルドさん」
オズワルドと呼ばれた背の高い黒髪の青年が、アンジェラの隣に並び立つ。二人は知り合い同士の気安さで軽い会釈をし、再会の喜びを述べ合った。
「再会するたびに美しくなっていくね、アンジェラは」
「フフ、口がお上手ね」
オズワルドは、公爵令嬢たるアンジェラに敬意を表し、上流社交界仕込みの洗練された所作で、アンジェラの手の甲に口づけをする。
アンジェラは礼儀正しく笑みを見せて応えながらも、オズワルドを心配し、懸念を口にした。
「レスター本家が催す音楽会だから、お歴々のご招待に加えて一族が全員集まってるでしょ。スミス家の大奥様に気付かれたら、大目玉じゃありませんか? 仮にもスミス家の御曹司さまだし」
オズワルドは綺麗にウインクして返す。
「抜け出して来たんだ……お祖母様は気付かないさ」
レスター邸の灯りを背にして、旧交を温めるべく親しく語り合う二人は、気付いていなかった。
――墓地を取り巻く樹木の茂みの中に、もう一人の人間が居て、彼らの会話に聞き耳を立てていると言う事を。
オズワルドは不意に怪訝そうな顔をして、アンジェラを見やった。
「つかぬ事聞くけど、ヒューゴ・レスターと付き合ってるのかい?」
最近、アンジェラがヒューゴと良く会っているという噂は、オズワルドの耳にも入っている。良く会っていると言う話であるにも関わらず、ヒューゴのひょうきんな雰囲気のある容姿が、アンジェラの美しい容姿と釣り合わないせいか、色っぽい噂は全く無かったのだが。
アンジェラは穏やかに微笑んで見せた。オズワルドを安心させるように。
オズワルドは、妙に気を回し過ぎるところがあるのだ。実際、オズワルドは数年前に父親を失い、若くしてスミス家の現当主になったばかりだ。気の張る事も多いに違いない。
「ヒューゴさんは弁護士よ。目下の裁判のパートナーで、それ以上でも以下でも無いわ」
「弁護士なら、他にもいるじゃ無いか」
「それはそうなんだけど。予算の問題で。トラブルの際の身辺安全込みで、彼は格安で引き受けてくれたの」
「あ、そうか。あんな流血のゴシップも出るくらいだ……ヒューゴは、どうやってか、寄宿学校では戦闘技術の上手な先輩に恵まれたらしいね。軍隊からスカウトされたらしいという噂を聞いたよ」
また一陣の風が吹き、アンジェラの柔らかな金髪がふわりと波打った。薄いクリーム色のエンパイア・ラインのドレスが、白いショールと共にひるがえる。
オズワルドはアンジェラの美貌に見惚れながらも、その陶磁器のような滑らかな顔に浮かんだ憂いの表情に気付き、心配そうに眺める。
「でも本当に、予算だけの理由? お祖母様が、また何か言ったんじゃ無いだろうね?」
アンジェラは目を伏せて、かぶりを振った。
オズワルドは、なかなかシッカリした性格で顔立ちも立派な紳士だが、偉大なる祖母でもある『スミス家の大奥様』には、ハッキリした意思表示はできない性質だ。それに、この件は、『スミス家の大奥様』が直接に干渉して来ている物では無い。
アンジェラは、『スミス家の大奥様』に対するモヤモヤ感――或いは、複雑な感情――を振り払うかのようにキリッと顔を上げ、ニッコリ微笑んで見せた。
「それは、さすがに特定秘密だわね……知ったところで、どうにかなる訳でも無いでしょうし」
「そう言う事じゃ無いんだけどね」
生真面目なオズワルドは、アンジェラがオズワルドの立場に配慮して、故意に質問をはぐらかしていた事には気付いていなかった。余計な事に気付いたり急所を突いて来たりするような鋭さが無く、その良家の御曹司ならではの穏やかな性格は、アンジェラにとっては、ホッと出来る物である。
10代の頃は、その優しさにときめいた。そのときめきは、いつしか淡い思慕となり、初めての恋心になっていった。『スミス家の大奥様』の介入が無ければ、今頃は、結婚前提の付き合いだったかも知れない……
……最近は、少し物足りないような感じもしているのだけど。
再び一陣の風が通り過ぎた。夜ならではの冷たさと、春ならではの仄かな暖かさ。ひとしきり庭園の木々や足元の草葉がざわめき、快い沈黙が流れる。
アンジェラは、身体が冷えないようにシッカリとショールを巻き付けて、そっとオズワルドの様子を窺った。
オズワルドは、やはり生真面目な様子で、宵闇に揺れる葉影を眺めながら思案し続けている。
――オズワルドさんは、何か気に掛かっている事があるらしいわね。
アンジェラはそう推測しながらも、慎ましく沈黙を守っていた。
身辺で本当に困った事があれば、いつものように、きちんと言葉にまとめて相談して来る筈だ。これまでにも、そうしてアンジェラは、オズワルドの身辺のトラブルの相談に応じて、ゴールドベリの賜物である『直感』から来る助言を贈って来ていた。
アンジェラは暫しの間、虚空を流れる物に耳を傾けた。
予想通り、『直感』に引っ掛かって来る物がある。余り良く無い兆候を示す物が。
アンジェラは、オズワルドをサッと振り返った。
「大奥様が、あなたを呼び始めてるわ」
「えッ? もう?」
「ご機嫌が、どんどんお悪くなってるの……私の勘が外れた事が無いと言うの、ご存知でしょ」
「あ、ああ……後で、大事な話があるから……アンジェラ」
オズワルドは溜息をつきながらもうなづき、庭木の向こう側に見えるレスター邸に向かって身を返した。名残惜しそうに手を振り、足を速めて去っていく。
アンジェラも手を振り、レスター邸の方へと去って行くオズワルドを見送る。
オズワルドの姿が見えなくなった頃合で、アンジェラの背後に広がる庭園の木立の中から、エドワードが不意に姿を現した。
「ふーん……なかなか興味深い逢瀬だな」
「……!?」
物思いにふけり始めていたところで、虚を衝かれた形だ。
急に訳も無く苛立ちが湧き上がって来る。アンジェラは、キッと眉根を寄せてエドワードを振り返った。
「あなたってホント油断ならない人ね、エドワード卿! あなたの職業って、もしかしてスパイとかじゃ無いの!?」
エドワードは、イタズラっぽさも感じられる不敵な笑みを浮かべていた。明らかに、不意を取られて苛立っているアンジェラの姿を、意地悪く楽しんでいる様子だ。
「私が此処にいるのは、レスター本家の当主の直々のご招待ゆえだよ」
「そう言えば、ハクルート公爵家の御曹司であらせられたわね……」
――この、見せ掛けを見事に裏切っている、歩くファッション雑誌チャラ男ヤロウ。
アンジェラは我知らず、コブシをプルプル震わせていた。陶磁器のような白い顔は、苛立ちで上気している。ネコであれば、シャーッと威嚇している格好だ。
エドワードは、何故かアンジェラを動揺させたり苛立たせたりするポイントを、シッカリ突いて来るのだ。冷静にならなければ。アンジェラは、あさっての方を向いて息を整え、ブツブツと呟き始めた。
「……私の勘、本当に鈍ったのかしら。まだ花嫁が未定だなんて。紹介した令嬢たちなら、このシーズンの間に話がトントン拍子でまとまるだろうに、いよいよ謎だわ……! まさか、『男同士の恋人縁組』が真の希望とか……!?」
アンジェラは、縁組に対するエドワードの意思を、本気で疑い出した。何しろ、金髪の美青年と言う類まれなルックスなのに、まだ花嫁が未定なのだ。
エドワードは一歩アンジェラに歩み寄ると、不意に笑みを引っ込め、口を開いた。
「先程、大広間でレスターの一族の面々が会した時、『スミス家の大奥方』がアンジェラ嬢を無視したと言う一場面を拝見してしまってね」
そう語りかけるエドワードの声は、低い。
アンジェラはギクリとしてエドワードを振り返った。エドワードは笑っていなかった。物問いたげな眼差しだ。そこには、憐みの気配も仄見える。
――此処に来る前の、あの親戚一同の挨拶の場を見られていたのか。
アンジェラは、傷口に塩を塗り込まれたような気がした。すぐにあらぬ方を向いて、うつむいてしまう。
アンジェラは知らず、歯を食いしばっていた。白いショールを握りしめた手も、心なしか震える。
エドワードはアンジェラが立ち寄った墓石を観察し、そこに、いわくありげな女性の名前を見出した。
「シルヴィア・G・スミス夫人……?」
「……私の祖母です。スミス家の先妻で。母を出産した後の状態が良く無くて、早死にしたとか……」
シルヴィア――と口の中で繰り返したエドワードは、不意に、その名がオリヴィアと似ている事に気が付いた。
――シルヴィア。オリヴィア。
エドワードは若干の驚きを込めてアンジェラを見やった。
「ヒューゴが以前、説明していた……レディ・オリヴィアの双子の妹どのか? レスター分家のスミス家に嫁いだとか言う話の……」
「察しの良い方ですわね」
アンジェラは、殊更に深い溜息をついた。話題が変わった事で、多少ながら気分が落ち着いて来る。その手が、ボンヤリとショールの端をいじり始めた。
「今のスミス家の大奥様は、後妻で……直接の血縁は無いけど、祖母に当たる方です。オズワルドは、今の大奥様の孫だから……遠縁の従兄弟と言う感じかしら? 話に聞くところでは、祖父のスミス氏に似ているそうです」
「スミス家の御曹司・オズワルド殿は、アンジェラに相当、好意を持っているな……逢瀬も、これが初めてと言う訳じゃ無い」
「10代の頃は、彼との結婚を夢見てたわ……禁じられた恋って盛り上がるし……」
アンジェラは身に巻き付けた白いショールを直しながら、静かに呟いた。
さすがに、10代の頃の恋を思い出すと、面映ゆくなってしまう。夢見る乙女の常で、『騎士道物語』に出て来る禁じられた恋人たちのロマンスを、ひそかに重ねた事もあったのだ。照れ隠しであらぬ方を向いたアンジェラの頬は、いつしか仄かに赤く染まっていた。
「それで今は?」
エドワードの声は奇妙に平板だ。
不意に気配が変わった事に気付き、アンジェラは再びエドワードを振り向いた。
エドワードは、ハッとするような真剣な眼差しでアンジェラを見返している。
もう既に辺りは暗くなっていて、微かなランプの他には大した光源は無い筈なのに、エドワードの琥珀色の目は、むしろ刃の光を湛えたような金色に見え――アンジェラは、その射抜くような強い視線に、気を呑まれたように見入るばかりだった。
――この人は、奥深くに激情を秘めている人なのだろうか。
「オズワルドの最後の言葉を聞かなかった?」
エドワードは不思議そうに瞬きして、アンジェラを眺めた。
首を傾げた事で何処かの光の入る角度が変わったのか、それとも感情の波が去ったのか。既にエドワードの目は、いつもの琥珀色に戻っている。
「……え?」
「オズワルドは近日中に、あなたに求婚するらしい」
「……それは無いわよ! ロックウェル裁判が片付くまでは、絶対考えられない話……」
アンジェラは、更に言いつのろうとした。
その瞬間、突然、或る予感が閃く。
視覚と言うよりは聴覚方面の、デジャブのような――しかし確信めいた感覚。アンジェラは眉根を寄せ、辺りを見回した。心当たりのある方角を見定め、精神集中する。
いきなり賢者のような顔つきで沈黙したアンジェラの様子は、エドワードを驚かせた。
「……何だか、冷静だね……」
「勘だけど、オズワルドさんには将来の花嫁がいるわ。大奥様のご親戚の紹介の令嬢。相性ピッタリ……! さっき、オズワルドさんが真剣に考え込んでたのは、コレね!」
アンジェラは顔を引き締め、身を返した。レスター邸へ向かって駆け出す。
「縁組の作戦スタート?」
「当たり前じゃ無い、すぐ動かないと儲からないわ! イザベラと作戦会議だから、失礼ッ!」
「成功を祈るよ」
大事なオズワルドの幸せのためとあらば(ついでに、金のためとあらば)――とばかりに、アンジェラは、素晴らしい速さで駆け去って行く。
また一陣の風が吹いた。庭木の葉群がさざめく。
エドワードは額に乱れかかった金髪をかき上げ、鋭い笑みを浮かべた。
「実に喜ばしいね……両方の意味で」




