違う視線で待つ前夜。
月葉が発した言葉がその事実に秘められた感情を圧縮し、まるで歴史の授業を聞いているかのような情報になり下げたとしてもその裏にあった人の思いは消えない。
消え去らない。
逆に淡泊な味気のない情報になり下げられたことで、隠された思いが……感情が反抗するようにかつての光景を振り返らせる。
★
阿部家。しっとりした暗闇が古くからの日本家屋を包み込む夜。廊下を、一人の下働きの少年が誰かを探し求めるように小走りに走っていた。
そして中庭に出た少年は目的の人物を見つけ―――立ち止まった。
月明かりがぼんやりと柔らかく照らす中庭。中央にまだ固いつぼみの状態の桜を置き、上に銀の月が光るそこを、一匹の妖狐がぼんやりと見上げていた。
金の毛並は銀の光に照らされ輝き、琥珀色の切れ長の瞳は本当の宝石のように美しく、座る体を中心に九本の尾が円を描く様に広がっていた。
……月葉だ。
少年はしばし幻想的なその光景を見つめ、
「……あ、」
こちらに気付いた月葉がこっちを見たのに慌てて一礼し、隣に進む。
そして大型犬ほどの大きさの月葉の横に立ち、少年はもう一度礼をし、
「―――頭首様より伝言を預かってまいりました。」
来た内容を告げる。その声は少し震えていた。
(しっ……仕方ないよね、だって相手は月葉様なんだから……!)
少年は内心でそう言い訳をする。月葉は妖狐とはいえ、阿倍晴明の時代から阿部家に仕える妖怪だ。その上『鏡月』と謳われる最高の妖狐でもある。そのせいで、月葉に対して抱く感情は恐怖と尊敬の入り混じった物だ。接する機会のない高尚な存在でもあるために緊張していることもある。
「明はなんて言っていましたか?」
緊張しきった少年に返ってきたのはそんな優しい声だった。その声は話の先を促していて、
(よかった……。聞いてもらえる……。)
少年は安心したように内心で息を吐く。接する機会がなかったが故にその性格も予想でしかなく、月葉のその鋭い瞳が厳しい性格を予知させていたが故の少年の反応だ。
「では、頭首様からの伝言を伝えさせていただきます。頭首様は『式神』様に、『近々仕事を行う。明日の夕方、私の部屋に来るように』と、申されていました。」
★
(仕事……ですか。)
月葉は下働きの少年が言ったセリフを頭の中で反芻し、納得する。
(以前の仕事を行ってからもう二ヶ月が経ちましたからね……。)
妖怪が少なくなり、仕事が減っているとはいえこれだけの空白期間を作るのはよくない。仕事を……実践をしない時間は阿部家の必要性を薄め、他家に実戦の機会を与えてしまう。つまり、追い抜かれてしまう。それを防ぐための仕事だろう。
(しかし……)
「あの……。」
考え込みかけた月葉に、おずおずと存在を忘れられた少年が声をかける。
「どうかしましたか……?」
その声には自分が何か失敗したかを不安がる感情が滲んでいた。
「すいません。何でもないですよ。伝達ご苦労様です。」
月葉は慌てて口元を和らげそう礼を言う。何かに集中すると他の事を忘れがちになるのはまだ年齢が二ケタでしかなかった頃からの治らない性格だ。
下働きの少年はその声に自分が変な事をしていないと知り安心したのか、こわばった表情を少し和らげて、一礼しもと来た道をたどって行った。月葉はそれを九本の尾の内の一本を振って見送り、
(しかし、)
先ほど中断した思考を再開する。視線を己の名に戒めとして刻んだ月へと向けて、
(今回はどうなるんでしょうか……?)
思案する。
下働きなどは……いや。術者でも知らないかもしれない、この家の現状。というより、陰陽師という人々の現状。そしてそれが間違っていると知っているのはおそらく月葉だけだ。……文章ではなく生きた晴明の考えを知っている月葉だけだ。
月葉が問題視しているのは、最近の仕事内容が阿倍晴明の教え……陰陽師の本来の在り方からずれている、ということだ。
まだ阿部家はそこまでは行っていないが、血筋だけで家業を続ける陰陽師の家系の中には『ただそこに在るだけ』の妖怪を狩り、仕事としている人たちが平気でいる。阿部家も何時そうなるかは分からない。もしかしたら、今回の仕事でそうなってしまうかもしれない。
(以前も……かなりギリギリでしたし……。)
以前の仕事内容は『足まがり』と呼ばれる妖怪だ。まがりとは方言でまとわりつくという意味で、『通行人の足にまとわりつき、転ばせる』だけの妖怪だ。怪我人が出ていたとはいえ相手どる必要もないような気がする妖怪だったのでは、と今でも思う。
(まぁ、既に後の祭りですがね。)
月葉はため息をついて思考を切り替え、かつて己を……自害を選ぼうとしていた己に生きるという選択肢の実を突きつけた晴明を思い出し、再びため息をつく。
(僕は晴明様の考えに同意し、救って頂いた恩もあって、晴明様の亡き今も阿部家の『式神』として在ります。術者の考えを尊重するのが『式神』なので、今までは尊重し、協力してきましたが……。)
もしも、と月葉は考える。
もし、明らかに、言い逃れをできないぐらい間違ったことを明がしたとすれば……
(その『式神』である僕は……どうしたらよいのでしょうか……?)
★
「―――――伝言、お受けいたしました。」
下働きの少年がそう言い、伝言を月葉に伝えるため部屋を出ていくのを、阿部明は横目で見送り、その扉が閉められたのを確認してはぁ……。と思い息を吐き、足を崩して頬杖を突く。
文机の上に散らかっている和風の部屋に似合わない印刷された用紙の内容は、阿部家が把握している周辺の妖怪に関するデータだ。妖怪である月葉が目を通せば粗が大量に出て正確なデータに更新できるのだろうが、それは『式神』の仕事ではない。
そして、家のこの先を決めていくのも。
(全く……。自由な意思を持ち、主張できない『式神』を嘲笑う人がいるが……責任がない点は実に羨ましい。)
明はごきごきと首を鳴らし、適当に書類を取り上げ目で活字を追っていく。今決まっているのは『明日仕事をする』という事だけで内容に関してはさっぱり白紙状態だ。こんな状態で決定するなど愚者の好意だが、そうでもしないと次の仕事を決められないと思った。
生きていくためだし、長く続いた家業を護るための行動だが、はっきり言って今の時代に陰陽師は必要ないのだ。
人間が戦争という名の無駄な人殺しをやめてからは、今まで人を殺す方向ばかりに用いられていた技術が生活を豊かにする方向で使われ始めた。
それにより、闇は地上から消えつつある。夜でも人口の明かりが地上の大部分を照らす現世では本来の闇は珍しくなってきているのだ。
それは闇の中に生きる妖怪の居場所の現象も同時に示す。妖怪による悪行が減っているのもそのためだろう。だから本来滅するべき妖怪はいない。だから仕事は無理やり探す意味もないのだろうが、
(けど、阿部家の頭首として阿部家を潰すことは……)
阿部家という陰陽師の中で一線を規す千年以上の歴史を持つ名家の頭首だという責任感がその選択肢を選んではいけないと可能性を削ってゆく。酒を飲んだ父親が愚痴っていた時は作り話だと思って笑っていたが、実際その立場に立つと想像していた以上だった。あの頃の自分を殴りたいとも思ったが、取りあえずは目先の問題だ。明はもう一度書類をじっくり読み始め、ため息をついて問うかのように思った。
(……どうしたらよいのか。)