第6話 母の将棋盤
俺は将棋雑誌に載ってる棋譜を寝転がりながら眺めていた。
「この時代はずいぶんのんびりとした戦いをしてんだなぁ」
この記事に出ている元タイトル保持者はのんびりと矢倉を組んでいる。後手もそれに付き合う所謂『相矢倉』。
かつて『将棋の純文学』とまで称された矢倉。それは令和においては絶滅していた。
正確にいうと現代矢倉という戦法に形を変えているが、伝統的なものに関しては絶滅と言ってもいいと思う。
その原因は遅すぎること。現代の発達した急戦戦術の前に、チマチマ矢倉を組んでいたら間に合わないのである。
俺は全盛期の伏見六冠を倒せるほどの実力があるとは自惚れていない。
だけど、俺の脳みそには『平成』の知識がパンパンに詰まっている。
「これは俺の武器だ」
『平成』、それは人々が将棋AIに抗い続けた時代。今までの将棋を全否定されながらも、それでも将棋を進化させ続けた激闘の時代だ。
そのおかげで、平成の将棋は歴史上最も面白いものになった。
一千年の歴史の中で将棋が最も変化したのが平成だ。
平成の時代に華開いたのは居飛車の急戦戦術たちだ。
例えば『エルモ囲い急戦』。エルモという将棋AIの名がついていることから分かるように将棋AI発の戦術だ。対振り飛車として最強であり、衰退しつつあった振り飛車そのものにトドメを刺した戦術だ。
他にも例えば、矢倉左美濃急戦・居角左美濃急戦。これは先手の矢倉戦術に対する強烈なカウンター。矢倉の絶滅はこの戦術のせいだと言ってもいい。
居飛車急戦の発達により、振り飛車も矢倉も、そして穴熊も。昭和を彩った戦術たちが過去のものになったのだ。
「そして、令和」
令和の将棋の変化は、平成に比べると地味だと思う。世間に与えた衝撃も小さい。
だけど、令和に入ってから数年で、研究量は平成の数万倍に達した。これは比喩ではない。実際の棋譜数だ。
――令和では定跡という将棋の根本的な概念が否定された。
「まぁ、まずはプロにならないとな」
所詮、俺はプロになれなかった男だ。だけども、新戦術をぶつけ続けることができる。そして、この若い脳みそ。
若い頃から将棋だけを考え続けることで、人の脳は将棋に特化する。
この二つが合わされば、全盛期の伏見六冠にだって勝てるはずだ。
決意を固めた時、ドアが開く音がした。
「おかえり、母さん」
「達郎、ただいま。ちゃんと留守番できたかい?」
俺は小さく頷く。
母が帰ってきたのに、窓の外はまだ明るかった。
最近、母さんは俺の説得により少し仕事の量を減らしてくれていた。
俺が周囲を巻き込んで、母さんが働きすぎであることを主張した結果だ。未央ちゃんの祖父も説得に加わってくれた。
近所の人から見てもそれくらい母さんは働きすぎていた。
「母さん、今日も早く帰ってきてくれたね」
「まぁ、あんたが倒れてから残業を減らさせて貰えたからね」
週に一度は休んでくれるようになったし、夕方には帰ってきてくれるようになった。それでも働きすぎだと思うけど、前と比べれば大分ましだ。
母子二人、贅沢をしなければ十分だと思う。
夕食を作ろうとした母が、足を止めた。
「あっ、そうだ」
台所へ行くのかと思ったら、母は押入れの前へ歩いていった。
中から取り出したのは、阪急百貨店の紙袋だ。それを俺に差し出してくる。
「どうしたの? 俺の誕生日は4月だよ?」
「分かってるよ。いや、最近達郎は頑張ってるからね。開けてみな」
母に促されて、袋の中にある細長いプレゼントの包装を開ける。
その中には……。
「わぁ……。将棋盤だ」
二つに折りたためる将棋盤。ピカピカの新品だ。
そっと開くと、まっすぐな線で区切られた升目が並んでいた。自分で引いた線とは、やっぱり違う。
「あんた、ずっと段ボールで将棋を指してたでしょ! 買ってきたんだから」
新桂の折りたたみ式の将棋盤は、決して高級品ではない。だけど、うちにとっては安いものではない。
母が奮発して買ってきたことが痛いほどわかる。
母はなんでもないような顔を装っているが、わざわざ梅田の百貨店まで行って選んでくれたんだろう。
「ありがとう。母さん」
「うん。達郎、頑張って強くなるんだよ」
「うん、俺は強くなるよ」
母がまだこちらを見ているうちに、俺は地域の情報誌を開いた。前から目をつけていたページを母に見せる。塚口で開かれる将棋大会の案内だ。小学生の部もあった。
「母さん、これに出てもいい?」
「へぇ、将棋の大会かい。近くでやるんだね」
「うん。出てみたいんだ」
小学生名人戦はまだ先だ。まずは地元の大会で優勝する。
「いいよ。頑張っておいで」
「うん、優勝してくるよ」
母は俺の言葉を聞くと、微笑みながら狭い廊下にある流し台の方に歩いて行った。
「強くなる、か……」
きっと、母と俺では想像する強さが違う。
母は、俺が近所で将棋の強い子になる程度だと思っている。
だが、違う。俺は小学生の中で最強になる。奨励会に入ってその中でも最強になる。
そして、史上最年少のプロになって……。全てのタイトルを奪い取るのだ。
「そのための道具は俺の頭の中にあるんだから」
俺の手元にある、真っさらな新桂の折りたたみ式の将棋盤。
脚付きの日向榧の将棋盤ですらも、到底及ばないほどの価値がある。
俺は、この盤に誓った。




