第5話 塚口将棋愛好会
もう小学三年生というのに未央ちゃんはあまりにも自由だ。
チャイムが鳴るとすぐに抱きついてくる。
「たっくん、今日は私と将棋しよ♪」
前から仲は良かったが、彼女の祖父に将棋で勝ってからはますます距離が近くなった。
子供の体温はやたらと高い。俺は腕に抱きつかれたまま、小学校から未央ちゃんの家へまっすぐ向かった。
……というか、なんで夏休みに学校があるんだろう。平成ではそんなイベントがあったのかな。俺の朧げな記憶の中では、
「今日はおじいちゃんが友達いっぱい呼んでるんだって!」
「えぇ、今日は何局指させられるんだろ……」
先週、未央ちゃんの祖父が招集をかけていた、この辺りの将棋愛好家のおじいちゃんたちだろうか。
「でも、最初は未央と勝負だからね! おじいちゃんと約束してるの!」
腕に抱きつかれたまま、未央ちゃんの家に着くと、そこには大量のおじいちゃん達が待っていた。
「おぉ、君が達郎くんかぁ。後でワシと一局やろうな」
何人ものおじいちゃんにわちゃわちゃ揉まれる。
「たっくんは、未央とやるもん!」
そのカオスさが傍目から見ているとなかなか面白い。
ひとまず約束どおり、未央ちゃんといっきょくさすことにした。
未央ちゃんは駒を迷いなく並べていく。
序盤を見た限り将棋の基本ルールはマスターしていそうだ。しかもちゃんとした戦術を使っている。
「おぉ、未央ちゃんはちゃんと将棋を指せるんだね」
「これ、おじいちゃんに教えてもらった秘密兵器なの!」
未央ちゃんの作戦は原始棒銀のようだ。
棒銀の中でも最も純粋に2筋の角の頭を狙う破壊力の高い戦術だ。
江戸時代に発明され、初心者に親しまれている戦術でもある。
「たっくん、歩を貰うね! 私強いかも!」
「歩が取られちゃった。困ったなぁ」
一直線に突き進んでくる銀が未央ちゃんのようで可愛らしい。俺はわざと受けずに好きなように攻めさせてあげることにした。
「やった! たっくんに勝てた! わーい」
喜んでいる可愛らしい幼女を一通り褒めてあげる。実際そこそこの棋力があるんじゃないだろうか。
棒銀と侮るなかれ。棒銀はアマの有段者でも使う奥の深い戦術なのだ。彼女はそれを使いこなせていた。
きっとクラスで将棋大会をしたら彼女は圧倒的に一位だろう。もちろん俺は例外として。
「さて……」
そして、俺は熱い視線を送ってくるおじいちゃん達に目を向けた。改めて見ると数が多いな。
「じゃあ、誰からやります? 時間がないので三面指しでしましょうか」
顔色を変えて押し寄せてくるジジイたち。
まずは三人に座ってもらい、三つの盤で対局を始めた。俺が順に盤を見ていくと、盤の向こうから声が飛んでくる。
「鬼殺しとは、このガキ……舐めやがって」
「奴は塚口四天王の中でも最弱……」
「ワシの四間飛車を喰らえ!」
同時に喋ってくるジジイたち。彼らは激しい急戦に持ち込もうとしてくる。
……この後めちゃくちゃ将棋をした。
◇
迫り来るジジイ達を適当に全員倒した後、残されたのは大量のおやつだった。倒したジジイ達のドロップ品だ。
「こんなにオヤツ貰っても困るんだけど……」
「じゃあ、未央が貰ってあげる! 毎日食べ放題にするの!」
それにしても……。老人達からしたら将棋が鬼のように強い不気味な子供だったはずだが、なぜか一人、また一人と倒すたびに大きな歓声が湧いていた。
負けた本人まで大笑いで、もう一局とせがんでくる始末だ。
「しかし、達郎くんは強いのぉ。栗山町の花巻さんも一蹴しておったな。あの人に勝てる者なんぞ、この辺りではおらんぞ」
誰だよ、花巻さん。去っていった老人の中にちょっと強いおじいちゃんがいたからソレだろうか。
まぁ、どんぐりの背比べレベルだけど。
「花巻さんは五段の認定状持っておるじゃがな……」
「アマ五段ですか。それはなかなか強いですね」
アマ五段はなかなか強い。町道場の中では無双できるレベルだ。周りの大人から強い強いと言われるのも、別にお世辞ではない。
話を聞くと未央ちゃんの祖父は勝てたことが殆どないらしい。
「たっくん。すごいね!花巻のおじいちゃんに勝つなんて!」
未央ちゃんは俺をキラキラした目で見つめていた。
「達郎くん、もう奨励会に入れるんじゃないかね?5級での試験も余裕では?」
——奨励会。
俺は未央ちゃんの祖父の言葉に苦い思い出を思い出す。
アマの段位と奨励会の段級位は別物だ。
未央ちゃんの祖父が言った奨励会の五級。この弱そうな響きは奨励会で下から二つの目の区分だ。
クラスで一番強い、未央ちゃんが一勝もできない祖父。その彼が殆ど勝てない花巻さん。
その花巻さんが殆ど勝てないのが奨励会の五級だ。
その町道場の帝王が、奨励会の鼻水を垂らした小学生にあっさり負ける。
何十年も将棋を指してきた大人が、まだ小学校にも通っている子供に教わる側になる。
……そして、恐ろしいことに奨励会の小学生達の上位一割、天才の中の天才しかプロになることはできないのだ。
「達郎くん! 花巻さんに勝ったなら必ずプロになれる!」
未央ちゃんの祖父は俺の肩に両手を置いてじっと見つめてきた。
……なんなんだよ、その花巻さんへの謎の信頼。
とはいえ、アマ五段に勝てたのは、俺が奨励会の中でもやっていけるという証拠かもしれない。
まぁ、中身がプロにも何度も勝ったことがある大人なので、それくらいできないと困るんだが。
「でも、まだ僕には奨励会の入会資格はないですからねぇ」
俺は心の中で呟いた。確かに俺は小学生の中で最も将棋が強いかもしれない。だけど、それは奨励会に入れることを意味しない。
奨励会には二つの入り方がある。研修会という下部組織で下積みをする、というのが一つ。
そして、大きな大会で入賞するというのが一つだ。
特に後者はプロ棋士をたくさん輩出している登竜門的なルートになっている。
大きい大会とは即ち、『小学生名人戦』。今の俺が目指すのは、この大会だ。
といっても予選がはじまるのは10月以降なので、数ヶ月も先である。
「さて、そろそろ五時じゃのぉ、達郎くんのお母さんはまだ仕事なのか?」
「多分、母は今日は夜まで仕事ですね」
俺はいわゆる鍵っ子というやつだ。
「……時代が違うんじゃが、こんな小さな子を留守番させるのは感心しないのぉ」
少しだけ、場の空気が重くなる。それを破ったのは未央ちゃんだった。
「達郎くんのママは、地震でお家が壊れちゃって大変なんだって」
それを聞くと未央ちゃんのおじいちゃんは少し気まずい顔をした。頭の後ろをかきながら俺の頭を撫でてくる。
「あぁ、そうか。神戸の大地震で引っ越してきたんじゃな」
その言葉に俺は頷いた。昨日の新聞では阪神・淡路大震災と呼ばれていた、あの大地震だ。神戸の下町にあった俺達の家は潰れ、住めなくなってしまった。
幸い、俺と母は無事だったが、家財も父さんの仏壇も全てが瓦礫の下だ。
「はい、この辺りは比較的被害が少なかったので、引っ越してきました」
母は生活を立て直そうと仕事をいくつも掛け持ちしている。生活保護を受けたって誰も怒らないと思うんだけどな。
引っ越しの事情を聞いた未央ちゃんの祖父は、顔を隠すように俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「達郎くん、いくらでも遊びにおいで。孫も喜んでるしな」
顔を上げた彼の目には涙が浮かんでいる。俺は何と返せばいいか分からなかった。その横で未央ちゃんは、祖父の言葉を喜んで飛び跳ねている。
「たっくん、明日も一緒に遊ぼ!」
明日……。流石に毎日遊ぶと将棋の研究ができなくなるので遠慮しておいた。夏休みは研究に没頭する貴重な時間なのだ。
だけど、未央ちゃんに無邪気に誘ってもらえたことは、俺の心を少し明るくしてくれた気がした。
……毎日は無理だけど、また来ようかな。




