第4話 ブラウン管の向こうの怪物
朝早く、母が仕事に出かけたあと、俺は一人、ちゃぶ台に新聞を広げていた。
風が吹くたびに部屋全体が悲鳴を上げるようにギシギシと鳴った。
「懐かしいなぁ。このボロアパートも」
俺と母が住んでいるのは、二階建ての木造アパートの角部屋だ。
前の人生では、中学生の頃までここで暮らしていた。
母と二人だけでも狭い。小学生の体に戻ったところで、狭いものは狭かった。
母は朝から晩まで働いている。
学校から帰っても誰もいなくて、自分で鍵を開け、母を待っていたのを覚えている。
俺はいわゆる鍵っ子ってやつだった。
今は夏休みだけど、それは俺の話で、母の仕事は休みにならない。
今日も夜まで一人なんだろうなぁ。
「母さんは働きすぎなんだよなぁ。どこかで止めさせないと」
俺がつぶやいたとき、隣の部屋から咳き込む音が聞こえた。
このアパートは壁が薄くて、隣の人が電話で話す声も、食器を重ねる音も聞こえてくる。
こっちのテレビの音も、きっと向こうへ筒抜けなんだろうなぁ。
部屋の隅では、テレビが朝のニュースを流している。
本体には「三菱」「高雄」と書いてある。
角が擦れて、あちこちに傷のついた、ずいぶん古いテレビだ。
「高雄ってなんだよ……。テレビの名前が漢字って違和感がすごいな……」
よく見てみるとボロいけど、表面はきれいに磨かれている。
ブラウン管のテレビだ。令和のものと比べると、ひどく分厚い。
窓を開けているのに風は全然入ってこず、首の後ろが汗でべたついていた。
「エアコンもないんだもんなぁ」
まだ朝なのに、この暑さだ。俺は窓の近くに歩いて行った。そして、窓を横に引いて、さらに開けようとする。
だけど、途中で引っかかって動かない。
……そういえば、この窓は普通に引いても駄目なんだった。少し持ち上げてから引くと、窓がギシギシ言いながら開いた。
「そんなどうでもいいことに限って、覚えているんだよなぁ」
俺が中学生の時に、このアパートは取り壊されることになった。それ以来、こんな窓を開けるコツなんてものは使ったことがない。
何年も使わなかった窓の開け方まで覚えている。幼い頃の学習っていうのは、きっと特別なんだろうな。
——そして、それは将棋も然りだ。幼少期に将棋を学べなかった人間がプロになれる確率は、宝くじ並みに低い。
俺はちゃぶ台へ戻った。
食事をするのも、新聞を読むのも、この和室だ。
一部屋しかないから、寝る時はちゃぶ台を脇へ寄せて布団を敷く。
廊下を兼ねた台所も狭く、母が流しに立っていると、俺は横向きになって後ろを通っていた。
中学生の頃には、それでも背中がぶつかることがあった。
日に焼けた畳はところどころ毛羽立っていて、膝をずらしただけで細かい屑が肌についた。
改めて一面の記事を見ても、あまりピンとこない。
『自社さ 辛うじて過半数。村上首相、続投表明』
自民党が社会党と組んでるのって、この時期だったんだなってぐらいだ。まるで夢の中の出来事を思い出しているような曖昧さで、新聞を読み進めても、当時のことはぼんやりとしか浮かんでこなかった。
見覚えのある言葉や人の名前はある。だけど、はっきり分かるとなると、文化面の下の方にある将棋の欄だけだった。
『伏見善一六冠、最後のタイトルへ』
タイトルを総なめにしている六冠が、王将戦の予選を勝ち抜いたという。
世間は史上初の七冠を期待して、大騒ぎになっている。残るは、あと一つだ。
「不思議と将棋のことだけはハッキリ覚えているんだよなぁ」
今度はテレビから、伏見善一の名前が聞こえた。
顔を上げると、伏見六冠の映像が流れていた。
盤に向かっている伏見は、俺の記憶にある姿よりずっと若い。
新聞で名前を読んだ時には分かっていたはずなのに、こうして動いている姿を見ると驚く。
伏見は唇を結び、盤を見据えている。相手が駒を動かすと、その目がわずかに動いた。
令和の若者たちは、この人のことを優しいおじさんくらいに思っているんだろうな。
確かに、物腰は柔らかく、喋る姿は優しい。
だが、本質は違う。彼は化け物だ。
画面の中のその眼光を見るだけで分かる。
対戦相手を睨み殺しそうな表情、満ち溢れる闘志。
これが本質だ。これが全盛期の伏見九段。
これから彼は全てのタイトルを取り、そしてその全てで永世号を持つことになる。
永世七冠という誰もが想像すらしなかった偉業。
——棋士を目指すということは、伏見九段と戦う覚悟を持つということだ。
しかも戦うのは令和の優しいおじさんではない。ブラウン管に映っている、触れるもの全てを傷つける全盛期の孤高の天才だ。
「でも、俺の知識があれば……。将棋が最も進化した20年間の知識を持つ俺なら……」
俺はちゃぶ台の脇から、段ボールを切って作った将棋盤を引き寄せた。
鉛筆で引いた線は少し歪んでいるし、駒も余った段ボールを小さく切って文字を書いただけだ。
見栄えは悪い。だけど、これでも将棋はできる。棋譜を並べることもできる。
——将棋というのは紙が一枚あればできるゲームなのだ。特別な道具がなくても、電源がなくても。
新聞を盤の横に置き、王将戦の伏見六冠の対局を初手から並べていく。
横歩取りだ。居飛車において最も激しい変化の一つ。
そして、序盤が終わると激しい駒の取り合いになる。
「ん……。ここで、この手か……?」
新聞の通りに指していくと、奇妙な手に当たった。
普通なら飛車を逃がして、それから角を打ち込む。俺ならそう指す。
だが、棋譜を確かめると違っていた。見間違えたかと思って、もう一度見た。
伏見が動かしたのは、歩だった。飛車を捨てる。
悪手にしか見えない手。
俺が相手なら、この飛車は取る。棋譜の中の相手も同じように、伏見六冠の飛車を取っていた。
「あ……、そういうことか」
俺はようやく気づいた。伏見六冠の壮大な構想に。
10手、15手、20手。読む、無数の変化を。その先では、伏見六冠が明確に有利になっていた。100ポイント、いや200ポイントの差がつくかもしれない。トッププロの対局では致命的な差だ。
——ズキンッ!
俺は思わずこめかみを押さえ、盤から目を離した。まだ考えたいのに。もっと深くまで将棋に潜りたいのに……。
今の脳みそには、さっきの演算は負荷が高すぎたようだ。
俺は大きく深呼吸して息を整える。それでも、まだ頭はズキズキする。頭は重くて何も考えられない。
俺はしばらくしてから顔を上げた。
ちょうど画面の中でも、伏見が顔を上げた。
ブラウン管越しに、目が合った。
剥き出しのナイフのようなギラギラした眼光。俺はそこから目を離せなかった。




