第3話 末は名人
未央ちゃんの祖父は座布団に座り、駒を並べながら俺の顔を見てきた。
「じゃあ、達郎くん、どれくらい落としたらいいかね?」
あ、俺が落とされるのか。
それも当然か。俺の体は小学生だ。
「えぇと、おじいさんはどれくらい強いんですか?」
「儂は南塚口で一番強いぞ。町内会の大会でも優勝したしな」
少し自慢げな未央ちゃんの祖父。
未央ちゃんは横で「おじいちゃんは将棋強いんだよぉ」と胸を張っている。
可愛いなぁ。
「じゃあ、平手でいいですか?」
俺の提案に、きょとんとした顔。
だけど、すぐに目を細めて、にこにこしながら了承してくれた。
きっと、子供が背伸びしていて可愛いなぁとか思っているんだろう。
「おぉ、伊藤流で並べているのか。平手でも楽しませてくれるかもしれないのぉ」
「まぁ、格好をつけてるだけですよ」
伊藤流というのは、駒の並べ方の流派の一つだ。
別に並べ方が強さに関係するわけではないのだが、プロ棋士は大体がちゃんとした流派で並べる。
アマも、高段者は大体そうだな。
俺は師匠がいるわけでもないのに、格好をつけて少数派の伊藤流で並べることが癖になっている。
「じゃあ、僕から失礼して」
▲2六歩。
つまり、俺は飛車先の歩を突く。
「おぉ、その歳で居飛車党か」
未央ちゃんの祖父は角道を開け、俺もそれに応じて角道を開ける。
そして、大胆な手つきで飛車が四筋に振られた。
「これは四間飛車というんじゃよ。まぁ、達郎くんなら知ってるか」
「まぁ……はい。ある程度は知ってます」
というか、割と得意だ。
アマ時代は俺も振り飛車党で、三間飛車を使っていた。
将棋AIと研究し始めてからすっかり封印してしまったが、それでも対四間飛車の対局なんて死ぬほどしてきた。
「達郎くん、これ未央と同じ名前の囲いなんだよぉ! 未央囲い!」
「あぁ、そうだね。同じ名前だね」
本当は美濃囲いだけど。
幼女は可愛いからいいのだ。
「たっくんは棒銀だね!」
「未央ちゃんも結構、将棋に詳しいんだね」
俺は少し感心した。
俺は4六銀と銀を上げている。
銀で攻め込むのは棒銀と似ている。
まぁ、普通は4六銀急戦と呼ぶけど。
「たっくんに褒められた!」
嬉しそうな未央ちゃん。可愛い。
祖父もにこにこしながら、俺たちのやり取りを見ている。
「達郎くんは船囲いで大丈夫かぁ。いい囲いを教えてあげようか?」
だけど、対局が進むと、未央ちゃんの祖父の口数は少なくなっていった。
俺は飛車先を突破して、敵陣に龍を作る。
俺の龍は二段目から美濃囲いに睨みを利かせる。
美濃囲いは横からの攻めには強い。
だけど、無防備な脇腹を食い破られては、ただでは済まない。
未央ちゃんが不思議そうに将棋盤を眺めながら、話しかけてくる。
「これはどっちが勝ってるの?」
それに答えた。
「うーん、まぁ大体俺の勝ちかな」
評価値にすれば、プラス千点というところだろうか。
プロの戦いなら、まずひっくり返らないレベルだ。
龍の利きを生かして桂香を取り、駒台に乗せていく。
まぁ、未央ちゃんの祖父は弱くはないが、アマの大会で戦ってきた好敵手と比べると、数段落ちてしまうな。
かといって、軽んじることはない。
将棋の裾野は、アマチュアの愛好家に支えられているのだ。
あんなに立派だった美濃囲いが崩壊していく。
もう王将は詰んでいるが、逃げ続ける。
七手詰みになった時、小さな声が聞こえた。
「負けました……」
「あれっ、おじいちゃんが負けちゃった! 未央も勝ったことないのに!」
未央ちゃんが目を見開いている。
「たっくん、強いんだね。次は未央とやろー!」
返事をしようとしたが、横から伸びてきた手に遮られた。
未央ちゃんの祖父の手だった。
「どうしたの、おじいちゃん? 次は未央と将棋するんだよ?」
「て……」
「て?」
少しためた後、未央ちゃんの祖父は俺の顔を見て言った。
「天才じゃ。小学三年生でこの棋力、儂相手に指導対局するほどの棋力とは……末は名人か」
「あっ……指導対局してたの、ばれちゃってました?」
俺は少し気まずくなって、頬をぽりぽりとかいた。
定跡を外れたくらいから、俺は未央ちゃんの祖父の棋力を大体察して、指導対局――悪く言えば接待をしていたのだ。
好手をうまく指せるように誘導してみたり、それに大げさに驚いてみたり。
俺の下手な芝居は、ばれていたみたいだ。
俺はプロになれなかった。
プロとは違い、弱いアマチュアと対局する機会があまりなく、好勝負を演出するのは少し苦手なのだ。
「こうしてはおれん。塚口将棋愛好会の緊急集会を開かなければ……」
黒電話に向かっていく、未央ちゃんの祖父。
仲間を呼ぶつもりだ。
これ以上、場が混沌とするのか。
俺が止めようと立ち上がる。
足が痺れて動かない。
こけそうになった俺を、未央ちゃんが支えてくれる。
優しい、いい子だなぁ。
その時、チャイムの音が鳴った。
未央ちゃんの祖父が玄関へ歩いていく。
しばらくして、未央ちゃんの祖父が戻ってきた。
「達郎くん、お母さんが迎えに来てくれたよ」
どうやら、近所の人が母の勤め先に伝えに行ってくれたらしい。
俺が倒れたと聞いた母は、慌てて早退してきてくれたようだ。
「やだ! たっくんは未央と将棋するの!」
未央ちゃんが俺の腕を掴んで離さない。
だけど、そういうわけにはいかないだろうなぁ。
「未央ちゃん、また今度、将棋しに来るからね!」
「本当? なら明日! 明日でいい?」
「明日はちょっと分からないなぁ」
最終的には、明日もう一度訪ねることになった。
予定を確認もしていないのに……。
いや、小学生に予定なんてないか。
泣く子と地頭には勝てないのだ。
しがみついている未央ちゃんを離した後、玄関へ駆け出す。
そこには母がいた。
何か言おうとした時には、俺は母の胸の中にいた。
「達郎! 倒れたって聞いたけど、大丈夫かい」
「母さん……」
そこで初めて、母は俺の顔をじっと見た。
俺の方へ手を伸ばしてくる。
母の顔は、記憶の中にあるよりもずっと若い。
皺もない。
けれど、頬に触れた手はがさがさだ。
労働者の手だ。
「いつもママって呼んでたのに、急に大人びちゃって」
そう言って小さく笑う。
そして、俺の全身を確認した後、小さく頷いた。
「今日は家で寝てなさい。明日も調子悪かったら、病院へ行こうか」
「うん、分かった」
母と街を歩く。
俺にとって、この街は小学生時代を過ごした故郷ともいえるほど馴染みのある街だ。
風景はとても懐かしい。
歩いていると、立ち止まって眺めたくなる。
この頃は街中のそこらじゅうにあった駄菓子屋、たばこ屋。
駄菓子屋の店先には、カードダスの販売機まで置いてあった。
お金を入れてハンドルを回すと、キャラクターのカードが出てくるやつだ。
そういったものを見かけるたび、つい足を止めてしまう。
心まで小学生に戻ったようだ。
見るものすべてが懐かしくて、温かい。
そんな俺を笑いながら、母親が背中を叩く。
そんなすべてが懐かしい。
何度も立ち止まりながら進んでいくと、二階建ての小さなアパートがあった。
ここが最近越してきたアパートだ。
少しぼろっちい。
俺たちは、その角部屋に住んでいた。
中にあるのは、廊下を兼ねたキッチン。
そして、その奥には和室が一部屋だ。
母さんは素早くちゃぶ台を脇へ寄せ、布団を敷いた。
「達郎、今日はゆっくり寝とき」
そう言って、着替え始める。
母さんはいくつもの仕事を掛け持ちして働いている。
今は、これから行く仕事の作業着に着替えている。
「母さんは夕方のお仕事へ行ってくるからね。何かあったら、隣の丹波さんにお願いするんだよ」
「はーい」
そう言って、母は夕方の街へ出かけていった。
母はずっと働いている。
そうやって俺を私学の中学や高校へ行かせてくれた。
俺が高校を卒業する寸前の時、母は倒れた。
多分、過労だったと思う。
それからの母は、人が変わったようにやつれて、元気がなくなった。
母がそうやって働いてくれたおかげで、俺はいい大学に行けた。
いい会社に入れた。
この国で五本の指に入る国立大学に入れた。
そのおかげで、いい企業に入れたし、そこの将棋部でアマの強豪として活躍できた。
すべては、母の教育にかける熱意のおかげだ。
でも、俺は思うんだ。
公立に通ってもいいから、学校帰りに母と過ごしたかった。
元気な母に、就職した姿を見せたかった。
俺は母の期待に応えようと、勉強を頑張った。
でも、俺が小学校で取った百点のテスト用紙を誇らしげに渡すたび、母にプレッシャーをかけていたのかもしれない。
この子にもっといい教育を受けさせてあげようと。
俺は母が出ていった玄関を眺めながら、小さく拳を握った。




