第9話 誰が一人だと言った
燃え盛るアストレア公爵邸は、まるで地獄の様相だ。
熱い火の舌が夜空をなぞり、王都外区の半分を血のような紅に染め上げている。
「……はぁ?」
濁は手の動きを止め、隠しきれない驚きを瞳に宿す。
首を捻り、遠くから息を切らし駆け寄ってくる黒髪の少年を眺めた。
誰だ?
知らない。
魔力らしき気配など、微塵も感じ取れない。
道端に生える雑草と何も変わらない。
「また、身の程知らずが湧いてきたわけか」
濁は嗤う。
手強く恐れられていたアストレア当主でさえ、今や血の海に倒れ気絶しているのだ。
家主すら敗れた相手だ。
源力すら希薄な平民ごときが、わざわざ死にに来るのか。
だけど。
少年・天宫零は足を止めず、濁の思惑通り怯えた顔も見せない。
出血した足を引きずり、一歩ずつ戦場の端まで進む。
火の光が、やる気のない冷めた彼の顔を照らす。
「誰が……俺が一人だと言った?」
大きく息を吐き、顎の汗を乱雑に拭う。
だけど瞳だけは、妙に強ばっていた。
言葉が落ちた瞬間、空気が唐突に凍りつく。
「っ?!」
濁の瞳孔が一気に収縮。
言葉にできない悪寒が、冷たい毒蛇のように背筋を這い上がる。
おかしい。
自分の力も感知も、事前に何の危険信号も上げてこなかった。
その時——
真っ白な手袋を嵌めた手が、何の前触れもなく、そっと濁の右肩に置かれた。
「こんにちは」
穏やかで、礼儀正しい。
街角で知人にばったり会ったみたいな、馴れ馴れしい口調。
地獄同然の焼け跡の中で、その声だけが異様に浮いている。
濁が慌てて振り返る。
視界に飛び込んできたのは、鮮やかな赤髪の一部と、底の知れない濃い紫の瞳だけ。
「な——」
ドゴォッ!!
反応も、魔力補助を張る暇すら与えられず。
見た目は無害なその掌から、崩れ落ちるほどの衝撃が一気に噴き出す。
「ぐあああ——!」
濁は砲弾に真正面から叩かれたかのよう、糸の切れた凧みたいに吹っ飛ぶ。
分厚い石壁を三面突き破り、遠くの燃える廃墟にめり込み、砂塵が盛大に巻き上がった。
中庭に、一瞬の死の静寂が訪れる。
「よかっ……た……」
血まみれのセラスは、火の中に佇む白い背中を見て、張り詰めた神経がぷつりと切れる。
剣が手から滑り落ち、力尽きて血溜まりに崩れ落ち、荒い息を繰り返す。
助かった。
あの男さえいれば、すべて終わる。
零は立派な剣聖の姿を気にも留めず、倒れたフィオナの元へ急ぐ。
「おい、歩けるか?」
冷たくなった少女の腕を掴み、地面から起こした。
「さっさとここを離れろ、危なすぎる」
あの化物じみた濁も、隣の桁違いに強い赤髪の剣聖も。
このクラスの戦いの余波だけで、今の自分なんてあっさり潰れてしまう。
なのに。
フィオナは零の手を不意に振り払う。
綺麗な紫の瞳が焦りで染まり、激しく咳き込み、口元から血が零れる。
「だめ……だめなの」
零の服の裾を必死に掴み、掠れた声で呟く。
「ドーンが……部屋に残ったままなの!」
弟だ。
長年病床に臥せ、逃げることすら叶わない幼い弟。
零は呆然と、燃え上がる本邸の建物を眺める。
火は完全に制御不能、崩落するのも時間の問題だ。
中へ助けに入る?
冗談じゃない、出欠三日の落ちこぼれ高校生なのに。
ヒロイン救済なんて、隣の頼もしそうな剣聖の役目だろ。
だけど。
絶望で青ざめたフィオナの顔を見て、零はぐしゃぐしゃの黒髪を苛立ち掻く。
「あー、もう!」
(冷めて適当な性格だけど、このまま見捨てたら夜眠れなくなるのは目に見えてる)
フィオナを脇に抱え、乱暴だけど慎重に火の回らない中庭の彫刻裏へ運んで安置。
「ここから動くな、待ってろ!」
少女の反論を遮り、零は歯を食いしばり、炎の渦の中へ突っ込んでいった。
……
熱い。
息も詰まりそうだ。
廊下に踏み込むや、濃い煙に咽せて涙が止まらない。
「せきっ……ドーン!どこだドーン!」
燃える扉を次々蹴り破る。
いない。
どの部屋にも姿はない。
視界は煙で埋まり、肺が風箱のように痛む。
(クソ、このままじゃ自分まで焼け死ぬ)
その時、キキ——カラン。
天井から嫌な軋む音が響く。
赤く焼けた大きな梁が、火の粉を撒きながら真上に落ちてくる。
避けられない。
体の反応が追いつかない。
(ここで終わり?)
瀬戸際、ぶわっ。
拳大の柔らかい赤い光球が、唐突に虚空から現れた。
「?」
光球が広がり、半透明の赤い壁が零を丸ごと包み込む。
ドゴン!
数百キロの梁がバリアに叩きつくも、弾力のある水面のように弾き返され、傍の壁に突き刺さる。
「火属性の精霊?」
零は目を見開く。
知識は浅くても、純粋な元素の気配くらいは判別できる。
(ドーンの元素適正が反応したのか?)
考える暇もなく、赤い光球は零から離れ、ふわふわと廊下奥へ漂っていく。
「おい、待て!」
零は合点し、光球を追って火の中を走る。
やっと、半分焼けた扉の前で光球が静止。
ドン、扉を蹴破る。
部屋の隅、ベッドに横たわるドーンが濃煙を吸い、半分気絶していた。
周囲には数匹の細やかな精霊が、せっせと熱気を遮っている。
「見つけた!」
ベッドから少年を引き上げ背負う。
「せきっ……頑張れ、小僧」
体重を確かめ、一気に息を吸い込み、門の方へ駆け出す。
背後の建物は次々と崩れ落ちる。
屋根ドームが完全に潰れる寸前——
バシッ。
零はドーンを背負ったまま火の外へ転がり出し、芝生にどさりと倒れ込む。
「はぁ……はぁ……」
新鮮な空気を吸い込み、大の字に寝そべる。
(くたくただ……異世界の運動量、体育の一キロ走より遥かに地獄だ)
——
一方、中庭の別側。
「カレン様!」
彫刻裏に残されたフィオナが体を起こし叫ぶ。
「気をつけて!あいつの能力は魔法も剣気も弱体化させる、術は使わな……」
「承知している」
カレンは首を少し傾げ、少女に安心させるよう微笑む。
無事に火事から逃げ出した零たちを確認し、視線を再び廃墟へ戻す。
「アストレア当主、皆様は先に避難を」
白いマントをゆったり脱ぎ、傍へ放り捨てる。
「残りは俺に任せろ」
言葉が切れると同時、シュシュッ——
陰から毒塗りの黒い投げナイフが、死角を狙って飛来する。
『全方位知覚』。
カレンは振り返りもせず、首を僅かに避けるだけ。
ナイフは髪をかすめ石柱に突き刺さる。
「見つけたぞ」
小さな呟きと共に。
瞬間、『濁の身』発動。
濁の本体が幽霊のよう、唐突にカレンの真後ろに現れる。
「死ね!!!」
目眩しと魔力攪乱の濁った力を掌に凝縮、カレンの後頭部へ叩きつける。
一撃で掠っただけでも、剣聖でも魔力と剣術が乱れ、実力を出せなくなる筈だ。
だけど、濁の思惑は外れる。
カレンは腰の帝剣を抜かない。
華やかな剣技も一切使わない。
ただ、上半身を半分後ろへ捻り。
腰に力を込め、右拳が砲弾のように後方へ撃ち出される。
ドゴォッ!!
「ぐぷっ——!?」
魔法なし、剣気なし。
徹底した肉体の暴力だけ。
カレンの一撃は音速を超え、拳がまともに濁の顔面に突き刺さる。
嫌な骨の砕ける音と共に、鼻骨が砕け、顔面が内側に陥没。
眼球が飛び出し、血が吹き出す。
「魔法と剣気を無効にできるのなら」
カレンは拳の血を払いながら呟く。
「純粋な肉体で、叩き潰すだけだ」
濁は麻袋のように宙を舞い、脳が痺れる。
(ありえない……これが剣聖の実力?)
空中で体を捻り、倒れた塀を蹴って距離を取ろうとする。
『全視の眼(擬)』をフル稼働、次の動きを捉えようとする。
だけど、遅すぎる。
「何を眺めている?」
死神の声が、すぐ耳元に響く。
「!」
慌てて振り返る濁の目に、穏やかだけど笑みのない顔が間近に迫る。
カレンの鉄のような掌が、血塗れの頭を鷲掴む。
「終わりだ」
指に力が込められ。
ぷち——。
熟れたトマトを潰すよう、頭蓋が掌の中で弾け、赤白の体液が飛び散る。
首のない死体が地面にぐったり落ちる。
カレンは警戒を緩めず、屍を静かに見下ろす。
案の定、『燃罪』の自動発動。
死んだ筈の体から赤い蒸気が立ち、肉芽が蠢き、骨が瞬く間に組み上がる。
二秒も経たず、怯えた表情の新しい頭が再生された。
「なぜだ、貴様ごときが」
魔力を練って逃げようと手足をばたつかせるも、カレンに隙を与えられない。
ドン!!
二撃目、強烈な横蹴りが腰に突き刺さる。
数百メートルも吹っ飛び、邸裏の岩山に激突。
岩山が崩れ落ち、無数の石に生き埋めにされる。
一瞬の静寂の後、瓦礫が内側から蹴り破られ濁が飛び出す。
傷は再び蒸気を上げ、癒え始める。
その刹那、シュッ。
カレンの姿が百メートルを瞬時に飛び越え、眼前に立つ。
三撃目、指を剣のように立て。
シュッ——シュッ——シュッ!
白い残像だけが幾筋走る。
「?」
両腕、両脚が滑らかな切断面を残して胴体から切り離され、周囲に転がる。
四肢を失った体がどさりと地に落ちる。
「まだ生きているのか」
カレンは冷めた目で見下ろし、憐れみも怒りもない。
『燃罪』が再作動、断口から肉芽が伸び始めるも、今までより明らかに遅い。
以前二秒で完了した再生が、八秒経っても手足の一部しか出来上がらない。
「回復力が落ちている」
冷徹に事実を告げる。
「大命侍なる肩書きも、補正を剥げば肉体はこの程度か」
濁は地面を這いずり回り、先程の傲慢さは消え、純粋な恐怖に塗れる。
カレンが最後の一撃を振り上げる瞬間。
「おい、白服!」
遠くから掠れた声が唐突に割り込む。
カレンの拳が止まり、横を向く。
黒髪少年が気絶した幼い子を背負い、目を煙で擦りながらこちらへ叫ぶ。
「誰だか知らないけど、早く片付けてくれ、こっちもう限界だ!」
弱いくせに平気で大きな声を上げる様子を見て、戦闘で冷えたカレンの表情が少し緩む。
地面でもがく濁へ視線を戻し、危うい笑みを唇に浮かべる。
「望み通りにしてやる」




