第10話 クスティ
ドン――!
「たとえ俺を殺したところで……何も変わらないよ。」
剣聖は歩みを止めない。
微かな揺らぎすらなく、ひたすら濁を討ち続ける。
チッ。
びちゃ。
戦闘の現場、半径十メートル近くの芝生は、とろとろした赤に一面染まりきっていた。
それでも濁は死なない。
砕けた肉がうごめき、骨が組み直されていく。
「気持ち悪い。」
無表情のまま剣聖が拳を振るう。
閃光が走り、次の瞬間、濁はまた四肢をばらばらにされる。
体中が砕かれ、残るのはボロボロの頭蓋一つだけ。
傍らのキーは、その様子を食い入るように見つめていた。
濁の瞳がひときわ収縮、背骨を這い上がるような冷たさが走る。
「は……ははは。」
半分欠けた頭部の口元が、不気味に裂け上がる。
「目標……達成だ。」
ボン。
予兆もなく濁の頭が弾け、赤黒い肉汁の塊になる。
もううごめく気配すらない、完全に息絶えた。
「……」
月明かりの下、剣聖の表情は曇る。
鼻に突き刺さるのは、吐き気を催す濃い血の匂い。
「剣聖。」
カレンの背後から、しわがれ疲れた声が響く。
振り返るとゼロが歩いて来る。
「終わったの?」
剣聖は地面の血溜まりを眺め、黙ったまま。
二時間後、昼。
公爵邸の中庭。
刺すような陽光が、昨夜の暗雲を晴らすことは叶わない。
「当主、一つ伺いたいことがあります。」
カレンは息を整え、他の面々と共に公爵から少し離れた芝生に立つ。
血痕は片付けられたものの、土に染み込んだ鉄のにおいが仄かに漂っている。
公爵は佇んだまま、一夜で十歳も老けたように見える。
「聞きたいことなら、分かっている。」
振り返らぬまま、疲れが滲む細い声。
「お前たちの陣営にも、情報が回ってきただろう。」
空を仰ぎ、雲一つない青空を眺めながら呟く。
「あの狂人たちが。今回派遣してきたのは……大命侍が二人だけのはず。」
「大命侍」の単語が響いた瞬間、辺りの空気が凍りつく。
「王都郊外に騒ぎを起こして囮にし、主力の戦力を引き付けておいて。」
「その隙に……公爵邸へ強襲を仕掛けた。」
拳を握り締め、爪が掌に食い込む。
「挙句、あの品物まで奪われてしまった。」
落胆が滲む口調。
「品物、ですか?」
疑問に思ったゼロが一歩前に出る。
昨夜命懸けで戦ったのに、相手の目的は最初から暗殺じゃなかったのか。
公爵が顔を向け、しばし視線を交わした後、長くため息をつく。
「亡き妻の遺品だ。」
目元が霞み、遠い過去を見透かすような眼差し。
「彼女は……」
聞いてはいけない話だと悟ったゼロは慌てて俯く。
「失礼いたしました。」深く腰を折る。
「気にするな。」自嘲めいた笑みを浮かべ手を振る。
「昔の話だ、話したところで何も問題はない。」
瞼を閉じ、記憶の扉がゆっくりと開かれる。
(三十年前)
某貴族学院、決闘場。
カーン――
金属同士の激突音が会場に響き渡り、続いて鈍い着地音。
制式の剣が地面に落ち、遠くまで滑って止まる。
「負けだな。」
少年の声は起伏のない淡い調子。
「くっ……」
地に倒れた男は歯を食いしばり青ざめ、起き上がろうと身を翻す。
だがその前に、
シュッ。
剣を構えた少年は手加減せず、冷たい刃先を相手の喉元に突きつける。
あと一ミリ進めば命が絶える距離。
「ペドロ、今週十連勝だって?」
「化物みたいな強さだ……」
「当たり前だろ、アストレア家の次期当主だぞ。」
観覧席の貴族子弟がざわつき、羨望・嫉妬・畏怖の視線が中央の少年に集まる。
秋風が吹き、枯れた葉っぱが石板の決闘場に舞い落ちる。
「代わってやる。」
唐突に、澄んだのに断固とした声が鳴る。
ざわめいていた会場が一瞬で静まり、人々が自然に左右に分かれ道を空ける。
そこから赤髪の少女が歩み出す。
風が髪をなびかせ、宝石のような紫の瞳が穏やかにペドロを捉える。
ペドロの目つきが変わる。
「ノラ。」
つぶやくように名を呼び、剣を握る手に力が入る。
「先に言っておく。女だからといって手加減はしない。」
構えを整えるペドロ。
ノラは黙ったまま柄に手を添え、穏やかに笑う。
次の瞬間、カーン――
二本の剣がぶつかり、昼間でも鮮やかな火花が弾ける。
速い!
ペドロが内心で驚く。
カン、カン、カン!
剣の衝突音が連なり、無駄な牽制なし、最初から全力の打ち合いが続く。
見物人は呆気に取られ、二人が互角に渡り合う様を見守る。
「あの子、なんでこんなに強いんだ?」
「知らないの?ウスゲア家の三姫だぞ……」
戦況は目まぐるしく変わる。
ペドロの剣は重厚で一撃が重い、ノラの剣は素早い毒蛇のように、反撃のたびに急所を狙う。
だが筋力差は覆せない。
ペドロは隙を見逃さず、全身の力を腕に込めて上から薙ぎ下ろす。
バキッ――
耳障りな破断音。
ノラの剣身が真っ二つに砕け、前半の剣身が回転してカランと地面に落ちる。
剣先は喉から数センチのところで止まる。
ペドロが剣を収め、少し息を弾ませる。
「私の負けです。ご指南ありがとう。」
穏やかな笑みを残し、優雅に礼を述べて背を向ける。
少女の後ろ姿を眺め、ペドロは胸がざわつく。
思考より体が先に動いた。
「ノラさん、待って!」
決闘場に響く少年の声に、自覚のない戸惑いが混ざる。
ノラは足を止め横顔だけ向ける。
「時間があれば……東のコスティへ来てくれないか。」
言葉が落ちた瞬間、観客席が大騒ぎになる。
「おおー!」
「コスティ?タンポポの花畑で有名なあの場所か?」
「ペドロ、本気だったのか!」
野次と歓声が湧き上がる。
だが少女は返事せず、少し足を止めただけでそのまま場を去る。
赤い髪が風になびいて遠ざかる。
「……」
(俺、焦りすぎたのかな。)
ペドロは佇んだまま、ノラの消えた方角を長く見送る。
夕暮れのコスティ。
丘一面がオレンジ色に染まり、風が吹くたび、無数のタンポポが白い雪のように空へ舞う。
ペドロは斜面に膝を抱えて座り、花々を眺めてため息をつく。
手を伸ばし花を摘もうとするが、指が触れる前に風が吹き、種が茎から離れて飛んでいく。
視線を追うと、舞ったタンポポが少女の掌に落ちる。
ペドロは呆然と立ち上がり、手足の置き場に困る。
「大丈夫?」
少女が振り返り、夕陽が輪郭を柔らかく縁取る。
「あ、大丈夫……」どもりながら答える。
ペドロの慌てた様子を見て、ノラがくすりと笑う。
「よくここへ来るの?」
紫の瞳が少年を映し、湖水のように穏やか。
「そうかも。ここが大好きなんだ。景色がいいし。」
棕髪を掻き、地面を見下ろす。
「ここなら多くの煩わしさから逃げられる。アストレアの後継者という重責も、果てしない訓練も、全部忘れられるから。」
夕陽がノラの赤髪を照らし、夢見がちな輝きを生む。
「そうね。」
ノラは手を広げ、タンポポの種を掌に受け止める。
「私たちみたいな立場の人間は、時々逃げ場が必要なのかもしれない。」
独り言めいた細やかな声。
ペドロは彼女を見つめる。
あの頃のノラは、本当に美しかった。




