第7話 燃焼
血が、まだ流れている。
チッ、チッ――
太ももの傷口から、崩れた石板の上に暗い赤の血溜まりが少しずつ広がっていく。
驚きの表情を浮かべたままの頭部が、すぐそばに転がっていた。
数秒後、首のなくなった死体がようやく状況を理解したのか、どさりと地に倒れる。
勢いよく吹き出した血が、廃墟を真っ赤に染め上げる。
その血溜まりの淵に立つ赤髪の青年。
真っ白な白衣に、一滴の血しぶきもついていない。
あまりにも不条理な光景だった。
詠唱もない。
魔力の激しい揺らぎもない。
剣を振る残影すら、捉えられなかった。
ただ、終わった。
「……」
ゼロはぽかんと地面に座り込んだ。
頭がショートしたように、目の前の出来事を処理できない。
これが、剣聖ってやつなのか。
「……様子が、あまり良くないみたいだね」
穏やかな声が、ゼロを現実に引き戻す。
ケレンが振り返る。
紫の瞳には、殺戮の後の険しさなんてなく、道端の傷ついた子猫を見るような、穏やかな憐れみだけが宿っていた。
ゼロは思わずうつむく。
左足。
女が投げつけたギザギザの投げナイフが、まだ肉に食い込んだままだ。
アドレナリンが切れた途端、痛覚神経が蘇り、焼けつくような激痛が走る。
視界が霞んでくる。
「俺……」
何か言おうとしても、乾いた喉から細い嗄れ声が漏れるだけだ。
「今の状態じゃ、自分でここから離れるのは無理だろう」
ケレンが少し眉を顰める。
彼は顔を上げ、あたりを見渡す。
炎が空を焦がし、嘆き声が響き渡る。
かつて栄えた王都は、今や地獄と化していた。
救わなければならない人間が、どこにでもいる。
「よければ、まず城外まで運んであげよう」
ケレンが柔らかく囁く。
「城外に臨時の野戦病院がある。設備は簡素だけど、ここにいるよりは安全だ」
ゼロは断らなかった。
というより、断る力すら残っていなかった。
視界がぐるぐると回る中、柔らかな風に体が持ち上げられる感触だけが残る。
次の瞬間、周囲の景色が霞がかった光の粒になる。
速い。
風切り音さえ追いつかないほどに。
気がつけば、鼻にきつい薬草のにおいと血のにおいが混ざり合って漂っていた。
城外、臨時の野戦病院。
「持て……こいつをここに!」
「止血剤、早く止血剤を持ってこい!」
走り回る医療関係者と、うめき声を上げる負傷者で溢れている。
ケレンはゼロを隅の空いた藁の布団にそっと下ろす。
「傷口は、入り口の治療師に診せておいた」
相変わらず穏やかな声が響く。
「申し訳ない、長くはいられない。城内に、やるべきことがたくさん残っているから」
ゼロは天幕の柱にもたれ、顔を青くしていた。
まるでこの世のものじゃないような赤髪の青年を、見つめる。
「……行けよ」
ゼロは弱々しく口角を上げる。
「俺のことは気にしないで。元々、いつ死んでもおかしくないゴミみたいな人間だ」
ケレンが一瞬、動きを止める。
紫の瞳が、ゼロを深く見つめる。
慰めの言葉は何一つかけず、ただ軽く頷くと、夜の闇の中に残像を残して消えていった。
傷口は簡単に処置された。
ナイフは抜かれ、厚い包帯が巻かれる。
重傷者ばかりが優先されるため、太ももを貫かれた程度のゼロは、粗末な止血薬だけで痛みに耐えるしかない。
夜が更ける。
天幕の中には、息の詰まるような絶望感が漂っていた。
ゼロは隅に座り込み、横を見やる。
藁の布団の上には、七八歳くらいの女の子が両親の腕の中で丸くなっていた。
目尻に涙の痕を残しながらも、両親の柔らかな囁きに包まれ、すっかり眠りに落ちている。
泥まみれで未来への恐怖に染まった両親は、それでも我が子を必死に守り抱きしめていた。
……まぶしい。
ゼロは視線を逸らし、天幕の破れた穴から空を見上げる。
穴越しに、この異世界の紫がかった星空が覗いていた。
美しい。
だけど、どこまでも見知らぬ場所だ。
過去の半生が蘇る。
地球、日本。
普通の県立高校生。
秀でた顔立ちも、輝かしい成績も、アニメのような熱い青春も何もない。
この世界のちっぽけな歯車の一つに過ぎなかった。
毎日、単調で退屈な日々を繰り返すだけ。
昔は夢見たこともあった。
自分に隠れた才能があるんじゃないか、壮大な事件に巻き込まれて、華やかな日々を送れるんじゃないかって。
だけど現実は、笑えるほど冷たい。
裕福じゃない家庭。
何の取り柄もない自分。
高校生になると家計のため、バイトを転々とした。
コンビニレジ、チラシ配りの着ぐるみ、深夜の品出し……
バイト先で同級生に会うことも多かった。
連れ立って、明るく笑う彼ら。
自分はおどけた制服を着て、隅っこで彼らの視線を避けるだけ。
クラスの中では透明人間。
注目されることもなく、友達もほとんどいない。
「ああ、天宮くん?いるの?」
それが一番よく聞いた言葉だ。
いつしか、すべてが嫌になった。
作り笑いも、学校も、灰色だらけの現実も。
だから逃げた。
狭い部屋に閉じこもり、カーテンを閉め、世界とのつながりを断ち切る。
引きこもりになった。
誰かが現状を壊しに来てくれる、閉ざした扉を叩いてくれるって、ずっと待っていた。
けれど結局、何も起きなかった。
そしてこの世界に来て、残り寿命が四ヶ月に満たないと告げられた。
「最悪な人生だ……」
ゼロは低く自嘲する。
その時、天幕の外から不穏な騒ぎ声が響いてくる。
「どけ、どけ!」
「医療兵はいないのか?高位の回復術師は!」
ゼロは一瞬、身を固める。
柱に手をつき、傷ついた右足を引きずりながら、一歩ずつ外へ出る。
野戦病院の入り口では、兵士たちが血まみれの男を担いで駆け込んできた。
鎧はボロボロに砕け、残った肩鎧には見覚えのある紋章が刻まれている。
それは――アストレア公爵家の紋章だ。
「おい……」
ゼロの心臓が激しく鼓動する。
人混みを押し分け、前に出る。
「カド?」
その顔を見て、彼は気づく。
数日前、公爵邸の訓練場でセイラスに散々罵られていた、若い騎士だ。
カドの瞳はもう霞がかっていた。
血を吐きながら、砕けた通信水晶を握り締めて離さない。
「セイラス様……お嬢様が……まだ、そこに……」
声は、かろうじて聞こえるほど細い。
ゼロはその場に立ち尽くす。
冷たい夜風が薄い服をなびかせる。
頭の中に、セイラスが道で自分を押さえつけた光景が蘇る。
冷酷な瞳をしながらも、唯一の護身用の短剣を投げ渡してくれた赤髪のお嬢様の姿が。
「お前が死んだら、お嬢様が困る」
セイラスの言葉が耳に響く。
自分はゴミだ。
行ったところで何の役にも立たない。
足も負傷している。
行けば、ただ無駄に死ぬだけだ。
理性が必死に警告する。
だけど。
ゼロは包帯を巻いた足元を見下ろす。
「どうせ、残り四ヶ月しかないんだろ」
独り言をつぶやく。
空っぽだった黒い瞳に、突如、強情な火が灯る。
どうせ死ぬ運命なら。
最悪な人生に希望なんてないのなら。
せめて最後くらい――
自分の意志で、選んでやる!
「カド」
ゼロはひきずる足で前に進み、兵士の手から血に濡れた長剣を奪い取る。
周囲の驚いた視線など気にせず。
「戦場の中心、どう行けばいい?」
「本気で?」
馴染みの声がゼロの耳元で響く。
「バルト」
――
数時間前。
王都中央区、アストレア公爵邸。
火が、空半分を刺すような朱色に染め上げていた。
セイラスは森の中を全力で駆け抜ける。
風属性の魔力を極限まで高め、ブーツが石板をキリキリと擦り鳴らす。
ようやく辿り着いた時、目の前の光景に血の気が引いた。
邸宅の門は完全に砕け散り、騎士団員の死体が敷き詰められている。
四肢が散らばり、血の海が広がっていた。
「お嬢様!」
セイラスは叫び、仲間の死体を踏み越え、邸宅の奥へ突進する。
中庭。
達人クラスの剣術を持つ現アストレア当主が、激しく息を切らしていた。
その向かいには、長髪の男が立っている。
男からは吐き気のするような濁った気が漂い、歪んだ不気味な笑みを浮かべている。
「この程度か、アストレアの当主?」
当主は怒鳴り、長剣を真っ赤な流星のように振り抜き、男の顔面へ叩きつける。
達人剣士の全力一撃。
城壁を真っ二つにする威力を持つ。
だが――
長髪の男はただ軽く手を上げただけだ。
『アグビスの賜り物』――
剣が届く寸前、狂暴な魔力がお湯に落ちる雪のように、たちまち消え失せる。
攻撃が、希釈された。
「な、なに……!」
当主の瞳が収縮する。
長髪の男は逆に横蹴りを放つ。
ドン――!
当主は糸の切れた凧のように数丈弾き飛ばされ、石柱に激しくぶつかる。
ありえない。
セイラスが中庭に飛び込んだ瞬間、その光景を目の当たりにする。
達人剣士の当主が、こうも簡単に押さえ込まれるなんて……!
「セイラス!逃げろ――!」
血の海に倒れた当主が、絶叫する。
その背後には、フィオナが壁際にもたれていた。
額から絶え間なく血が流れ、美しい顔の半分を真っ赤に染めている。
家伝の黒い長剣は手に握られているものの、体が勝手に震えていた。
「逃げる?俺を無視するなよ」
長髪の男が嗤う。
次の瞬間、彼の姿がその場から消える。
速い。
セイラスは背筋に寒気が走り、死の気配が全身を包み込む。
長髪の男は既に背後に回り込み、濁った魔力をまとった拳を後頭部に突き出してくる。
終わった。
拳がセイラスに届く寸前――
カン――!!!
鋭い金属音が響き渡る。
拳は、突如現れた剣によって、強引に弾き飛ばされた。
「セイラス、ここで倒れちゃダメだ」




