第6話 王都の乱
馬車の揺れ。
一ヶ月の地獄の訓練よりも、ずっと胃が悪くなるような振動だ。
ゼロは車の板にもたれ、右手で無意識に左上腕を押さえる。
厚い布越しでも、焼けつくような刺す痛みがはっきりと伝わってくる。
「緋脈」――
死神のカウントダウンと呼ばれるこのものが、絶望的な速さで血管を鼓動している。
残り四ヶ月もない。
「おい、坊ちゃん。顔色、めちゃくちゃ悪いぞ」
向かいからセイラスのからかうような声が響く。
彼は腰の剣をだらしなく拭きながら、鷹のような鋭い瞳を休む時でさえ宿していた。
「……疲れただけ」
ゼロは顔を背け、窓の外を眺める。
王都、ヴァレリウス。
魔法と鉄で築かれたこの巨大都市は、あまりに雄大で息が詰まりそうだ。
「疲れてるくらいがいい。疲れてるってことは、生きてる証拠だからな」
セイラスは剣を収め、後ろへ流れていく石畳の通りを見やる。
「俺たちが今走ってるこの道、昔アストレア家の先祖が初代皇室に従って領土を広げた時、魔物の頭蓋骨で敷き詰められたんだ」
また歴史の話か。
教科書すらまともに読まないニートのゼロには、こんな壮大な物語なんて興味がない。
だがセイラスは妙に乗り気だ。
「アストレア公爵家は昔から帝国の東の盾だ。あの竜の血がなければ、この繁栄は荒野の魔物に食い荒らされてた。感謝しろよ、坊ちゃん」
「……何に感謝すんだ。俺みたいなゴミを身代わりにされたことにか?」
ゼロは冷ややかに返す。
セイラスは一瞬きょとんとして、すぐに短く笑った。
「頭いいな。分かってるやつと話すのは気持ちいい」
馬車は上城区と中城区の境目で止まる。
前方には、山のようにそびえ立つアタロール図書館のシルエット。
人類の知恵の祭壇であり、皇室の権威の象徴だ。
ゼロは馬車から飛び降りる。
陽光が目に刺さる。
通りには人があふれ、華やかな貴族とせわしない職人が行き交う。
高価な香料の香りと錬金工房の硫黄のにおいが混ざり合う。
これが異世界。
美しく、残酷な虚構だ。
「行こう。この雑踏を抜ければ裏口だ。覚えろ、うつむいて、黙って、俺についてく――」
セイラスの説明は唐突に途切れる。
その瞬間。
ゼロは突如とした「静止」を感じた。
世界の流れが一秒、無理やり止められたような。
次の瞬間。
ドゴ――ッ!!
右側の連なった建物の奥から、大きな爆発音が響き渡る。
前触れも、予兆もない。
厚い石壁が紙切れのように崩れ、無数の破片が風を切って通りに押し寄せる。
「伏せろ!」
セイラスが怒鳴る。
彼は瞬く間にゼロの首を押さえつけ、石板に強く押しつけた。
煙が陽光を遮る。
悲鳴と叫びが、穏やかな午後を引き裂く。
ゼロは激しく咳き込み、手で目を覆う。
煙の隙間から、一つの人影が見えた。
崩れた建物の廃墟の上。
男が勢いよく放り出され、石板の上を十数メートル滑り、赤い血痕を残す。
廃墟の中には一つの黒い影。
顔は見えない。
ただ、埃の中で妖しく紫に輝く瞳だけが、凍えるほどに怖い。
次の瞬間、影は消えた。
「クソ……襲撃か?」
セイラスの声がかつてないほど重くなる。
彼は剣を抜き、風属性の魔力が刃に揺れ、周囲の埃を払う。
「おい、恵みを受け入れない雑魚共め」
冷たい声。
廃墟からではなく、ゼロの背後から響く。
背筋に悪寒が走る。
生存本能が最高レベルの警報を鳴らす。
ゼロは勢いよく振り返る。
瞳に漆黒の流光が映る。
黒いローブの謎の男が、いつの間にか十歩先に立ち、細い剣でゼロの喉を突こうとしていた!
速い。
人間の反応を超えた殺意だ。
脳は回避の指令を出しているのに、ニート高校生の体は錆びた機械のように動かない。
死ぬ、俺は。
その考えが鮮明に浮かぶ。
キン――!!
二つの剣がぶつかり、火花がゼロの鼻先に飛ぶ。
セイラスだ。
彼は不思議な体勢で二人の間に割り込み、片手で剣を持ち、必殺の一突きをしっかり受け止めた。
「俺の前で人を殺すな、百年早いぜ」
セイラスの口調は淡いのに、剣を握る手は微かに震えていた。
黒衣の男は耳障りな笑い声を上げる。
彼は無理に絡もうとせず、衝撃の反動で後ろへ跳び、混乱した人混みに木の葉のように溶け込む。
「おい!止まれ!」
セイラスは追おうとしたが、足を強く止める。
顔色がひどく悪くなり、懐の通信水晶に映る刺すような赤い光を見つめる。
「……どうしてこうなる」
騎士の声はかすれる。
「どうした?」
ゼロはよろよろと立ち上がる。
「公爵邸が……襲われた。高位の魔物と残痕使徒会の共同作戦だ」
セイラスはゼロを強く見つめ、葛藤に満ちた目をしていた。
「お嬢様がそこにいる」
ゼロの心が沈む。
セイラスが何を考えているか分かっていた。
お嬢様を守るのが、アストレア騎士の最高の使命。
自分なんて、知り合って数日の取るに足らない「身代わり」に過ぎない。
「行け」
ゼロは服の埃を払い、冷ややかに言う。
「俺はまだ歩けないほど弱くない」
セイラスは一瞬黙り、懐から折り畳まれた地図を取り出し、ゼロに押しつける。
「千六メートルまっすぐ進んで右に曲がれ。帝国の緊急避難所がある。軍用規格だ、入れば安全だ。俺か公爵家の支援が来るのを待て」
「分かった、うっせえ」
「……生きて戻れ。お前が死んだら、お嬢様が困る」
そう残し、セイラスは残影となって公爵邸の方へ消える。
通りは完全に混乱している。
炎が広がり、人々が怯えた羊のようにあちこち逃げ回る。
ゼロは地図を頼りに必死に走る。
太ももの筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼けるように痛む。
二千回の素振りの訓練の成果がここで現れる――少なくとも転ばない。
避難所の入り口の標識がうっすら見えてくる。
厚い鉄で作られた防御塔で、衛兵が民衆を中へ誘導している。
もう少し、この悪夢から逃れられる――
ドゴ!!
また爆発音が響く。
今度は避難所の入り口だ。
ゼロの十メートル先に、子供を抱えた女がいた。
次の瞬間、彼女は消えた。
代わりに、温かくて濃い赤い液体が飛び散る。
ポタ。
一本の切断された腕がゼロの足元に落ち、切り口が微かに痙攣している。
ゼロは足を止め、胃がひっくり返り、酸っぱいものを吐き出す。
濃い血のにおいが鼻から肺へ流れ込み、激しいめまいがする。
これはゲームじゃない。
漫画じゃない。
これは……地獄だ。
「あらあ、生き残りがいるわね」
軽薄な声。
不快なくらいのからかいが込められている。
死体が散らばる先に、一人の女が立っていた。
露出の多い黒いタイツを着て、ギザギザの短刀を手に持ち、先から濃い血が滴り落ちている。
ゼロはためらわず、振り返って全力で走る。
プライドも計画も全部忘れ、生きたいという思いだけが体を動かす。
だが。
悪魔の足音がずっと背後からついてくる。
「逃げて逃げて。獲物がもがくの、大好きなのよ」
ブチッ!
太ももに裂けるような激痛が走る。
ゼロはバランスを崩し、砕けた石の地面に激しく転がる。
見下ろすと、投げナイフが左足を突き抜け、血が堰を切ったように溢れ、ズボンを真っ赤に染めていた。
絶望が、潮のようにゼロを飲み込む。
「クソ……この野郎……」
ゼロは歯を食いしばり、腰の短刀に手を伸ばす。
フィオナがくれた、唯一の護身用の武器だ。
だが分かっていた。
無駄だ。
二千回の素振りなんて、本物の殺人鬼の前ではオモチャにもならない。
女はゆっくり近づき、しゃがんで血のついたギザギザの短刀でゼロの頬をはたく。
「この顔、可愛いじゃない。飾りに切り取ってあげようか?」
彼女の声は耳障りで、ガラスを引っ掻くような音だ。
ゼロの視界が霞む。
失血なのか、恐怖なのか。
右腕の「緋脈」が今はひどく熱く、骨まで焼き切れそうだ。
女の瞳に残酷な光が宿り、短刀を高く掲げ、ゼロの心臓を狙う。
「さようなら、可愛い子ちゃん」
空気を切る音。
俺、死ぬのか。
異世界に来ても、何もできないまま。
残り四ヶ月の命さえ守れないまま。
その瞬間、世界が静かになる。
予想していた激痛は訪れない。
空気に清らかな匂いが漂う。
雪山の風か、雨上がりの森のような。
ゼロはゆっくり目を開ける。
視界に純粋な白い背中が映る。
赤い髪が風に揺れ、汚れ一つない白い服が、血と廃墟だらけの通りで浮き上がる。
彼が立つ場所だけが、穢れのない聖域のようだ。
「……大丈夫?」
穏やかな声。
場違いな心配が込められている。
ゼロは呆然と、自分の前に立つ赤髪の青年を見つめる。
年齢は自分と同じくらいで、顔立ちが異常に美しく、濃い紫の瞳には安心させられる穏やかさが宿っていた。
「俺……大丈夫」
ゼロはぼんやりと答える。
女の殺し屋は十数メートル後ろに下がり、天敵を見つけた獣のように全身を硬くし、刀を握る手が激しく震えていた。
「あ……あなたは……?」
赤髪の青年は彼女を見ず、ゼロの方を向いて少し照れくさそうに笑う。
「自己紹介するね。カレン・ヴァレリウスだ」
彼は一瞬間を置き、何か確かめるようにしてから訊ねる。
「君は?」
「……天空ゼロ」
ゼロは無意識に名乗る。
そして瞬く間に瞳を大きくする。
ヴァレリウス?
赤い髪に紫の瞳。
常軌を逸したオーラ。
まさか――
「まさか……剣聖?」
カレンは後頭部を掻き、照れくさそうに素直に笑う。
「うん。個人的には『旅人』って呼ばれたいけどね」
「二人とも……私を無視してるの!?」
黒衣の女は耳障りな叫び声を上げ、恐怖で完全に狂ってしまう。
全身から漆黒の魔力が吹き出し、醜い黒い影となってカレンの背中に突進する。
「少し後ろに下がって。戦いは好きじゃないけど、彼女は俺が相手するから」
カレンの声は変わらず穏やかで、振り返りもしない。
「気をつけろ、あいつは強い!」
ゼロは思わず叫ぶ。
カレンは腰を曲げる。
動きはゆっくりで、ゼロにもはっきり見えるほどだ。
地面から衛兵が落とした普通の長剣を拾う。
そして――消えた。
そう、消えた。
音も、気流も、魔力の揺らぎもない。
ゼロの視界から、カレンの姿が画面から削除されたように。
「なっ――」
黒衣の女の言葉は途中で途切れる。
彼女は突進したままの姿勢で、驚きに満ちた顔の首が弧を描いて廃墟の中へ転がっていく。
血は三秒後になってようやく噴き出す。
カレンは女の後ろに立ち、力に耐えきれず砕けた長剣を投げ捨てる。
彼は再びゼロを見る。
陽光が白い服に降り注ぎ、畏れ多いほどに聖く輝いていた。
「もう大丈夫だよ」
これがゼロが異世界に来て、初めて感じた、「生きている」という確かな実感だった。




