第5話 訓練の日々
シャッ。
シャッ。
真昼の陽射しが目に刺さって、まぶたを開けていられない。
木剣が振り抜かれる音は、重く、それでいてどこか力なく鈍い。
汗が顎から土に滴り落ちる。
腕が機械的に上がり、下がる。
「なあ、剣振るときくらい、相手をイメージしろよ」
陰に身を寄せていたセラスがあくびをしながら、
持っている練習剣で俺の上腕を軽く叩いた。
力は強くないが、今の俺にとっては、ギリギリ均衡を崩される強さだ。
「2167……2168」
俺は相手にせず、ただ淡々とカウントし続ける。
視界の端が黒く霞み始める。
この強度の筋トレは、現役引きこもりにとっては、下手したら死にかねないレベルだ。
訳も分からず異世界に落ちてきた。
ここで生きていくと決めた。
初日の基礎訓練で音を上げるなんて、情けなすぎる。
「2999……3000」
ポタッ。
木剣が手から滑り落ちる。
俺もそのまま仰向けに倒れ込む。
土は熱いが、俺はもう体を翻す力も残っていない。
「ゼロ様、大丈夫ですか?」
影が視界を覆う。
メイド服を着た金髪の少女が、俺を見下ろしていた。
「もう限界なのに、セラス様のノルマを無理して達成する必要なんてないのに」
「無理してないよ……ドミリー」
俺は深く息を吸い、なるべく落ち着いた声を出す。
目の前のこの子、見た目は十四歳くらいにしか見えないけど、実は三十を超えていて、心だけが十四歳のまま止まっちゃってるんだ。
「ただ……丁度整数になったから、強迫観念みたいなものだ」
「プッ」
柱にもたれていたセラスが、隠す気もなくくすりと笑う。
剣を適当に投げ捨てる。
「よし、今日の『ニート改造計画』はここまでだ。ドミリー、こいつを部屋まで運べ」
運べって何だよ。
こいつの口の悪さは、やっぱり噂通りだ。
……
部屋までは、ドミリーに半分支えられながら歩いた。
扉を開ける。
室内は極めて整頓されていて、まるで誰も住んでいないモデルルームみたいだ。
茶髪のメイドが戸棚を拭いている。
気配に気づいて振り向き、ぬるめの塩水を差し出す。
「おかえりなさいませ、ゼロ様。死にそうなお顔ですわ」
彼女の声は、いつもどこか起伏がない。
「気にするな、イレーナ。まだ息はある」
俺はコップを受け取り、一気に飲み干す。
そのまま大の字になってベッドに倒れ込む。
「そんな寝方をしたら、筋肉が固まっちゃいますよ」
ドミリーが不満そうにつぶやきながら、慣れた手つきで俺の硬く張ったふくらはぎをほぐしてくれる。
鈍い痛みが一気に押し寄せてくる。
俺は天井を見つめる。
この世界での俺の『源』は1.2mm、ごく普通の凡人レベルだ。
チートも神器もない。
公爵邸でただ飯を食らっているだけで、申し訳なくなってくる。
目を閉じる。
赤髪の女の背中が脳裏をよぎる。
寿命が迫っている病人なのに、剣を振る姿は誰よりも苛烈だ。
面倒くさい。
まあ、とりあえず寝よう。
ポタ、ポタ。
目を覚ますと、部屋は真っ暗だ。
雨が降っていた。
体の痛みは少し和らいだが、まるで錆びた歯車みたいに動きが鈍い。
ゼロは上着を羽織り、バルコニーへ続く扉を開ける。
夜風が湿気を帯びて押し寄せてくる。
バルコニーの端に、誰かが立っていた。
「夜の雨って、冷たいね」
ゼロは何気なく呟き、手すりのそばまで歩く。
フィオナは振り向かない。
薄紫のパジャマを着て、真っ赤な髪が無造作に垂れている。
夜の闇の中では、昼間の威圧感が薄れ、どこか儚く頼りなく見える。
「雨は嫌いじゃない」
彼女の声はいつもの命令口調の冷たさがなく、柔らかい。
「雨はいろんなものを洗い流してくれるから」
中庭の雨に濡れた石板路を眺め、淡々と続ける。
「音も、においも、痕跡も。雨が降れば、まるで何もなかったみたいになる」
ゼロは横目で彼女を見る。
自分が死んだら、この雨みたいに、何の痕も残らないと思っているのか。
くだらない感傷だ。
「洗い流したところでどうするよ」
ゼロはぼさぼさの髪を掻き、手すりに両手をついて真っ暗な雨夜を眺める。
「一度存在したものは、流れて消えたりしない。それより——」
ため息をつく。
「俺は晴れの方が好きだ。雨は引きこもりの快適生活には湿気すぎて、ぼんやりするには向いてない」
フィオナが少し顔を横に向ける。
紫の瞳に呆れがよぎる。
それから微かにため息をつき、張り詰めた肩の力が抜けた。
「あなた、確かに変わってるわね」
二秒ほど空気が静まる。
前触れもなく、風の音さえ変わらない。
「頭を下げろ」
フィオナの声が一瞬で氷点下まで冷え込む。
同時に、腰の剣の柄に手がかかる。
ゼロが意味を理解する間もなく、襟元を勢いよく後ろに引っ張られた。
ドン!
鈍い衝突音。
ゼロが先ほど立っていた場所の手すりが、何かによって音もなく一角削り取られる。
「はぁ、こんな夜中に残業する輩がいるとは」
背後からセラスの声が響く。
片手でゼロの襟を掴み、もう一方の手で質素な制式長剣を握る。
刃には淡い青の風属性魔力が漂っている。
半空から、黒いレインコートを着た人影が三人、音もなくバルコニーに降り立つ。
「風、火、雷……」
真ん中の暗殺者がしゃがれた声で呟く。
『不壊の灰鋼』、セラス・ヴァルド。情報通りだな」
「不壊なんて大げさだ。俺はただ、雇い主を生かして連れ帰るだけの用心棒に過ぎない」
セラスはブラック企業の社員みたいに愚痴をこぼし、
言葉を切ると同時に姿を消した。
風魔法によって、理不尽なほどの速度で。
ブチッ。
微かな刃が肉を切る音。
セラスが左側の暗殺者の背後に現れ、長剣が相手の胸を貫く。
火属性魔力が刃先で一瞬煌めき、内臓を瞬時に破壊する。
絶叫する暇も与えない。
「一」
血を払い、淡々とカウントする。
残り二人の暗殺者が瞬時に散り、標的は真ん中のフィオナに定まる。
だがフィオナの表情は一切揺らがない。
「【雷閃】」
わずかな焦げ臭さが漂う。
家伝の黒い長剣が抜かれ、紫の雷光が雨夜を一瞬に駆け抜ける。
カンッ!
暗殺者の短剣が黒剣に触れた瞬間、雷に痺れて体が硬直する。
シュッ。
刃が喉を切り裂く。
「二」
フィオナが剣を収める。
バターを切るように、鮮やかな動きだ。
終わった?
ゼロは隅に立ち、一方的な蹂躙劇を眺める。
この二人、強さが理不尽すぎる。
だがゼロが息を緩めた瞬間——
先ほど絶命したはずの最初の死体の下から、影が不穏に歪んだ。
三人目だ。
仲間の死を隠れ蓑にした、潜行術。
標的は俺だ。
冷たい光を帯びた短剣が、ゼロの脇腹を突く。
セラスは十歩先。
フィオナは剣を振った直後。
間に合わない。
刺される。
その考えが一瞬よぎる。
体が本能的に後ろに下がるが、速度が全然足りない。
短剣が服を切り裂き、冷たい感触が肌に触れる。
逃れられないなら——
【闇・剥奪】。
殺傷性のない、地味な闇の元素の塊を、暗殺者の両眼にピンポイントで叩きつける。
「チッ!」
暗殺者の視界が完全な闇に閉ざされ、動きが0.5秒ほど止まる。
この0.5秒が、命取りだ。
激しい風が薙ぎ払う。
セラスの長剣が下から上へ、暗殺者の持刀する腕を一気に切り落とす。
続けてフィオナの黒剣が、彼の喉元に突きつけられる。
雨はまだ降り続け、バルコニーの水たまりに暗い赤が混ざる。
ゼロはその場に座り込み、長く息を吐き出す。
脇腹にヒリヒリとした痛みが走る。
皮が少し切れただけだ。
「まだ動けるか、ゼロ様?」
セラスが近づき、相変わらず軽い口調ながら、ゼロを探るように見つめる。
「さっきの闇魔法、タイミングが完璧だ。てっきり腰が抜けて動けないと思ったが」
「動けなかったけど、刺されたくなかっただけだ」
ゼロは傷を押さえ、彼の手を借りて立ち上がる。
フィオナは剣を収め、ゼロの傷元を一瞬見つめる。
「どうして逃げなかった?」
「足がすくんだ」
ゼロは素直に答える。
彼女はそれ以上問わず、冷ややかに視線を逸らし、部屋の方へ歩き出す。
「次は、私の後ろにいなさい」
ぽつりと残して。
「セラス、跡形もなく処理しろ。誰の差し金か調べろ」
「かしこまりま、お嬢様」
セラスは肩を竦める。
ゼロはバルコニーの死体を眺め、真っ暗な雨夜を見つめる。
やっぱり異世界って場所は、
気楽にニート生活を送るには、難しすぎる。




