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残響の記憶  作者: 寝そべり魔丸
第一章「王都編」
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第4話 刻限と黒剣


馬車の揺れが、全身の骨の隙間まで疼かせる。


十七歳。

日がな部屋に籠もり、ゲームと漫画に浸る、現役の引きこもり。

長旅など、まったくの拷問だ。


だが愚痴をこぼす余裕はない。

右腕の包帯の下、赤い筋が前腕へと浸食していた。

脈打つように、不規則な熱を帯び、躍り続けている。


二日後。

王都、上層区、白獅通り。


アストレア公爵邸に、成金めいた華美さは微塵もない。

灰色の高塀と黒鉄の門が、軍営のような殺気を漂わせる。


階段に足を踏み出した瞬間。

二本の精鋼槍が交差し、行く手を塞いだ。


「公爵邸、部外者は立ち入り禁止」

警備の声は鉄のように硬い。


余計な言葉は省く。

「赤い髪に紫の瞳の女に呼ばれて来た」


警備が問いただそうとした時、門脇の隠し扉が開く。

体を真っ直ぐに伸ばし、鷹のような眼光を持つ男が現れる。

紋様のない軽鎧を身にまとい、視線が一瞬、俺の右腕に留まった。


「護衛騎士、セラス・ヴァルト。

お嬢様が演武場で待っている。ついて来い」


挨拶など一切ない。

セラスの後を追い、武具油の香り充満する石畳の廊下を抜ける。

掘り下げ式の演武場へと辿り着いた。


演武場の中央に、赤毛の少女が立っていた。


今日は実戦向けの濃色稽古着。

袖も裾も紐できっちり絞られ、肩まで届く赤い髪は一本の紐で後ろに束ねる。

紫の瞳は、無機質な宝石のように冷めきっている。


手には刃のない太い木剣。

周囲には鎖帷子を着た家の騎士たちが転がり、苦しそうに息を荒げていた。


剣さばきは正確、判断は果断。

無駄な動きなど、一つもない。


少女は木剣を地面に捨て、従者のタオルで手を拭う。

階段上の俺へ、視線を向けた。


「フィオナ・アストレア」

淡い口調で名乗る。

「道中で命を落としたかと思っていた」


武具棚へ歩み、制式の鉄剣を抜き取る。

そのまま背後から、俺へ投げつけた。


風が鳴り響く。

反射的に柄を掴む。

次の瞬間、腕がぐっと重く沈んだ。


運動不足な高校生の身に、この鉄剣の重さは耐えられない。


ガシャ。


自然に手を離し、鉄剣が石畳に叩きつけられる。

痺れて疼く手首を振り、少し辟易して言う。


「重すぎる。持てない」


傍らのセラスは眉をきつくひそめ、腰の剣に手をかける。

公爵邸では、この態度だけで十回死んでも足りない。


だがフィオナの表情に、一切の変化はない。

常に腰に差す黒い長剣を抜き、剣先を斜めに地面へ向ける。


「なら、短刀を弾き飛ばされる前に、道端で朽ちる雑魚ではないことを証明してみろ」


言葉が途切れる間もなく、彼女の姿が掻き消えた。


速い。

脳が光景を捉える暇もなく、黒い刃が目前の空気を切り裂く。


剣術も足さばきも知らない。

この世界の常識さえ理解していない。

普通の人間なら、この場で目を閉じ、死を待つだろう。


だが俺は違う。

心の奥に潜む異様な意地が、極限の危機で引き出された。


避けられない。

なら、避けない。


腰の短刀を抜き、両手で柄を強く握り締める。

不格好な構えだが、命を懸け、真っ向から黒剣にぶつかる。


カァーン――!


膨大な力が柄を伝い、両手の虎口が裂ける。

死の脅威に迫られ、体内の微弱で混濁したソースが本能的に沸き立つ。


短刀の端にある欠けた結晶が光る。

淡く、純粋な黒い火花が弾けた。


フィオナの紫の瞳が細まる。


黒剣が空中で軌道を変え、剣峰で巧みに短刀の側面を叩く。

危うい黒い力を完全に打ち消した。


次の瞬間。

剣先が俺の喉元に突きつけられる。

表皮を裂き、一滴の血が滲み出た。


一撃。

たった一撃で、決着はついた。


地面に座り込み、荒い息を吐く。

黒い瞳で目の前の少女を見つめ、一言も発さない。


フィオナは剣を鞘に収め、動作は冷徹で鮮やかだ。

一歩踏み出し、俺の右腕を掴み、邪魔な包帯を一気に引き裂く。


暗紅色の筋が、茨のように前腕に張り付き、不吉な熱を放っていた。


「やはり、緋脈か」


声は相変わらず冷静だが、眼底に微かな感情が過ぎる。

彼女は無意識に腰側に手を添える。

濃色の稽古着の下、同じ呪いが、彼女の身を蝕んでいた。


「これは一体何だ」

喉元の血筋を拭い、冷めた口調で問う。


フィオナは立ち上がり、見下ろす。


「血液に不純物が沈殿して生まれる呪いだ。

この世界の人間なら、数年潜伏することも可能。

だがお前は異界の者。体に、一切の耐性がない」


一瞬間を置き、判決を下すような口調で続ける。


「今の浸食速度では、残された時間は四ヶ月にも満たない」


風が演武場を渡る。

腕の禍々しい赤い筋を見つめ、喉が動く。


四ヶ月。

俺がよくサボっていた学期よりも、短い時間だ。


激闘で高まったアドレナリンが引き、手足に冷たい恐怖が広がる。

俺は自称「暇つぶし屋」の引きこもりだ。

だが死にたくない。

この水洗トイレすらない異界で、意味もなく命を落としたくない。


「……つまり、治す方法はあるのか」

震えを抑え、深く息を吸う。

短刀を腰に戻した。


「アタロール図書館の最上階に、呪いを剥ぎ取る文献が残っている可能性がある。

だが私は行けない」


「なぜ?」

眉を顰める。


「緋脈は、アストレア家の最高機密だ。

私が最上階に足を踏み入れれば、半日も経たず、情報は王都の他公爵や皇室に漏れる。

弟ラインハルトが正式に当主を継ぐまで、『長女が死にかけている』という致命的な弱みを、世に晒すわけにはいかない」


紫の瞳が冷たく俺を捉える。


「だから、お前が代わりに行け」


呆気に取られ、苦い笑みが浮かぶ。


「冗談じゃない。この国の文字すら読めないし、上層階は貴族しか入れないだろう?」


フィオナは手を挙げ、暗金色の指輪を正確に投げ寄せる。


慌てて受け取る。

冷たい金属の感触が、少し頭を冷ませる。

指輪には茨と折れた剣の紋様が彫られていた。


「没落した男爵家の指輪だ。

当主は戦死し、後継者もいない。証拠の残らない空の身分だ。

これを使い、男爵の相続人として三階まで入れる」


「四階には、特定の魔力波長でしか通り抜けられないエーテル門が立っている。

緋脈は極陰の闇属性が沈殿したもの。

お前の体内のソースはわずかだが、闇属性を含んでいる。

門に近づけば、腕の赤い筋が共鳴し、門を抜けられる」


彼女の口調に、一縷の賭けが滲む。


「四階の禁区に、名もない黒い書物がある。

魔法で解読不可能な、異界の文字で記されている」


異界の文字。

瞳が細まる。

俺は転生者だ。

それは、地球の文字に違いない。


「つまり俺は、身代わりにして、使い捨ての翻訳役ってわけか」

自嘲してため息をつき、指輪を強く握る。

「いつ出発する?」


「今ではない」

フィオナは顎を少し上げる。


「今の体では、図書館の門番の魔力威圧にすら耐えられない。

死人の後始末をする気はない。セラス」


傍らの護衛騎士が大股に前に出る。


「剣の基本を教えろ。

基礎体力すら持たないなら、下層区の片隅に捨ててしまえ」


「ご命令通り、お嬢様」

セラスの鋭い視線が、俺を釘付けにする。


地獄が始まった。


普段、階下へ弁当を取りに行くのさえ億劫な怠け者にとって、これは生き地獄だ。


「剣を取れ! 毎日二千回、振り下ろせ! 手首を曲げるな!」


パチッ。

皮を剥いていない笹の棒が背中に叩きつけられる。

焼けつくような痛みが、神経を引き裂く。


「咳……!」


よろめき、重たい鉄剣が手から離れかける。

歯を食いしばり、目の前がくらくらする。

これは稽古ではない。一方的な拷問だ。


「下半身が泥のようにふらつく。

この構えでは、最低ランクのスライムにすら弾き飛ばされる」

セラスの声は鉄のように冷徹だ。


汗が粗末な着物を浸す。

両手に水ぶくれができ、やがて裂ける。

血が粗い柄に張り付き、一振りごとに刑のような痛みが走る。


「三百二十……三百二十一……」


荒い息が続き、肺は古いふいごのように悲鳴を上げる。


何度も剣を投げ出し、やめてしまいたくなった。

元の世界では、困難にぶつかればすぐ諦めるのが俺の癖だ。


だがその思いが浮かぶたび、右腕の赤い筋が鋭く疼く。


死にたくない。

こんな情けない形で、命を絶ちたくない。


平気なふりで隠していた根強い意地が、死の刻限と鞭打ちによって完全に引き出された。

奥歯を噛み締め、口の中に鉄の味が広がる。

ふらつく足を踏ん張り、再び剣を頭上まで掲げる。


夜。

物置の藁の敷物に倒れ込む。

右手は震え、黒いパン一つ持つこともままならない。


血と泥にまみれた両手を見つめ、不条理な気分になる。


「まったく、ふざけるな……」


目を閉じ、低く呟く。

隠しきれない疲労と、わずかな悔しさが滲む。


極限の疲れの中。

体内の細やかなソースが糸のように動き出す。

ゆっくりと、損傷した筋肉を癒やし始めていた。


四日目の早朝。


体がバラバラになりそうな状態で、規定時間より三十分早く演武場に到着する。

だが場内には、既に人影があった。


フィオナだ。


相変わらず濃色の稽古着。

派手な魔法は一切使わず、ただ基本の突きと旋回斬りを繰り返している。

動作は機械のように正確で、汗が赤い髪から滴り落ちる。


影に立ち、あくびをしようとして、急に立ち止まる。


難易度の高い連続変向斬りを終えた瞬間。

彼女の体が一瞬硬直した。

左手が素早く腰側を押さえ、眉を激しく顰める。


一瞬の出来事だった。

だが歯を食いしばり、額に青筋を浮かべる姿が、はっきりと目に映った。


ふざけた気分は完全に消える。


彼女の言葉が蘇る。

緋脈は、この世界の人間なら数年潜伏する。


あの冷徹な少女も、疲れを知らない怪物ではない。

高貴な公爵令嬢である彼女も、俺と同じ異界の落ちこぼれも、絶え間なく刺すような痛みに耐えている。


死という見えざる死神と、日々闘っている。

ただ、弱さを冷たい仮面と貴族のプライドの奥に隠しているだけだ。


「見飽きたか」


フィオナは振り返らず、黒剣で鋭い空気の音を立て、構えを解く。

振り返った時には、再び無機質な冷たさが顔を覆っていた。


二秒ほど黙る。

階段を下り、自分の位置へ行く。

乾いた血の跡がついた鉄剣を拾う。

水ぶくれが裂けた箇所には、硬い角質が生まれていた。


「見飽きた」


いい加減な口調ではない。

彼女を見つめる瞳に、人としての温もりと、現実を受け入れた沈黙が宿る。


――俺たちは、同じ絶望に追い込まれた、不運な奴らだ。


心の中でそう思う。


フィオナは新しくできた角質を眺め、厳しい口調で言う。


「今日、三千回の振り下ろしをやり遂げれば、明日の早朝、セラスが図書館の裏口へ連れて行く」


今回は、ぼんやりと「分かった」などと答えない。


激しく痛む肩を動かし、無理を承知の意地を込めて笑う。


「三千回か……。この女、本気で人を人と思っていないな」


両手で柄を強く握り、足を石畳にしっかり踏ん張る。


「だが――やってやる」


鉄剣が空気を切る。

これまでよりも重く、力強い風切り音が、演武場に響き渡った。

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