第3話 赤い紋様と紫の瞳
森の中を馬車が一日ほど進んだ。
道中、低級の魔獣が数匹現れたが、商隊の護衛は剣を抜くことすらなく、槍の柄で追い払っただけだった。
だが、日が西に傾いた頃、異変が起きた。
最初におかしくなったのは馬だ。
先頭の馬二頭が突然暴れ、前足で立ち上がる。御者は座席から放り出され、車輪に足を踏まれそうになった。
直後、道の左側の藪から生臭い匂いが押し寄せてくる。
壁のように濃い悪臭だ。
藪が炸裂した。
一頭の魔獣が飛び出してきた。
体つきは成獣のヒグマに近いが、前足が後ろ足よりずっと長く、関節は逆に曲がり、爪は指先に嵌まった四本の鎌のように尖っている。
頭は平たく、口は耳元まで裂け、不揃いな歯がむき出しになっていた。
背中には毛がなく、代わりに灰白色の骨板が一列並び、古びた墓石のようだ。
「鎌爪だ」
耳の欠けた隊長が剣を抜く。
「しかも成体だ――」
言葉が終わらないうちに、鎌爪は最寄りの馬車に飛びかかった。
前足が一薙ぎされ、車の板は紙のように裂け、木くずが舞い散る。
荷運びの男が車から転がり落ち、背中を破片で切り裂かれ、血が背骨を伝って流れた。
護衛たちが取り囲み、曲刀で背中の骨板を叩くが、火花が散るだけで、傷一つつかない。
零は短刀を抜き、指を白くなるまで握り締める。
前に出ようとした――
肩を掴まれた。
バルトが勢いよく後ろへ引っ張る。
零はよろめいて二歩下がった。
中年の荷運び男は腰から酒壺を抜き、最後の一口を呷って、口元を拭う。
「坊や、よく見ておけ」
男は荷車の下から剣を取り出した。
麻布に巻かれ、荷物の隙間に隠されていたその剣は、零は一度も見たことがなかった。
普通の片手剣より少し幅が広く、模様も刻印もない。
柄金具だけが磨き上げられて光っている――十年以上の掌のタコで生まれた輝きだ。
バルトの構えが変わった。
いつも居眠りし、酒を飲み、歯が一本欠けた中年男の姿は消えた。
重心を落とし、剣先を少し上げ、肩を開ききった男が、零の目の前に立っている。
鎌爪は平たい頭を回し、濁った黄色い瞳でバルトを捉えた。
低く唸り、後ろ足で蹴って、砲弾のように突進してくる。
バルトは逃げない。
鎌爪が目前まで迫った瞬間、わずかに体をかわす。
剣身を斜めに構え、剣先を突き出す。
骨板のない前足の内側関節を、正確に突く。
剣先が半寸刺さったところで止め、鎌爪の突進の勢いを利用して下へ引く。
刃が腱をなぞり、手首から肘まで一筋の血が走る。
鎌爪の右前足は即座に使えなくなった。
絶叫し、バランスを崩して地面に叩きつけられ、左足を無闇に振り回す。
バルトは一歩下がり、剣先を上げ、左足も同じ箇所を突く。
三撃。二つの関節。
鎌爪の両前足は完全に壊れ、地面に這いつくばって叫びながら土を掻き、背中の骨板が地面をドスドス叩く。
バルトは一気に踏み込み、喉元の骨板のない柔らかい部分を剣で突き抜く。
鎌爪の絶叫が止まる。
巨大な体がどさりと倒れ、後ろ足が二回ぴくついたきり動かなくなった。
バルトは剣を抜き、鎌爪の毛皮で刃を拭う。
懐から酒壺を取り出す――空だ。
舌打ちし、壺を腰にしまう。
周囲は三秒ほど静まり返った。
耳の欠けた隊長が近寄り、死体のそばにしゃがむ。
短剣で喉の傷をこじ開け、親指大の魔晶石を抉り出す。
灰白色で血に塗れ、夕陽の下ではあまり輝かない。
「強級魔獣の魔晶石だ。一年分の酒代にはなる」
隊長が魔晶石をバルトに投げる。
バルトは受け取り、ズボンで血を拭って懐にしまう。
そして零の方を向き、歯の欠けた口元でにっこり笑う。
「元冒険者だ。引退して八年、だいぶ腕が鈍っちまったよ」
零は短刀を腰に収める。
バルトが麻布を拾って剣を再び巻き、荷物の隙間に戻すのを眺める。
手の埃を払うと、何事もなかったかのように隊列の後ろへ歩いていく。
「その魔晶石って、何に使うの?」
零が訊ねる。
「……」
バルトは少し呆れたように息を吐く。
「そんなことも知らないのか。あれはとんでもなく高価なもので、使い道もたくさんあるんだ……」
隊列は再び進み出す。
荷運びたちが鎌爪の死体を道端に引きずり、残りは荷物の確認と車の修理をする。
零は荷車に上がり、右手で短刀の柄を押さえる。
柄の先の火炎魔晶石の欠片が、微かに淡く光っている。
さっきより少し明るくなった――鎌爪の魔力に反応したのか、それとも別の理由か。
気づかないまま、包帯の下の赤い筋が、手首の方へまた少し伸びていた。
日が暮れる前、灰狼林の宿駅が姿を現した。
零は車から飛び降り、商隊と共に宿駅の門をくぐる。
中庭には他の二つの商隊の馬車が止まり、かがり火が燃え盛っている。
井戸で顔を洗おうとした時、視界の隅に人影が入った。
赤髪の少女が宿駅の石壁にもたれ、腕を組んで立っている。
腰には黒い長剣が吊るされ、黒いマントをまとう。
肩にはヴァレリウス帝国の紋章が刻まれていた。
かがり火が紫色の瞳に揺れて映る。
少女は零を見ていた。
正確には、零の包帯を巻いた右手を、じっと見ていた。
零は背中に冷たい緊張が走る。
通りすがりのような軽い視線じゃない。
包帯に釘付けになった目は、何かを確認し、事前の情報と照合しているようだ。
思わず右手を背中に隠すが、隠した瞬間、かえって怪しいと気づく。
「右手、どうした」
赤髪の少女が口を開く。
声は大きくない。だが一語一語が鮮やかに響き渡り、周囲の火の音や馬の鳴き声、荷運びの掛け声までもかき消す。
「仕事で切り傷を負っただけだ」
零が答える。
少女は黙ったまま、零を見つめ続ける。
紫色の瞳に疑いも肯定もなく、冷徹な観察だけが宿る。
五秒ほどの沈黙の後、少女は手元から視線を外し、荷降ろしをする商隊の方を向く。
「あの鎌爪、誰が倒した」
「バルトだ」
零は車輪にもたれて酒壺を拭く中年男を指す。
「元冒険者で、引退して八年だと言ってた」
赤髪の少女はバルトの方を一瞥するだけで、話しかけようとはしない。
再び零に目を戻す。
「出身はどこだ」
「トレドだ。商隊についてここまで来た」
「その前は?」
「何の前?」
「トレドに来る前の話だ」
少女の口調は変わらないが、剣の柄を指で一度だけ叩いたのが零には見えた。
零は一瞬黙る。
リアが言っていた通り、この世界に転生者は珍しくない。
賢者の塔の賢者たちだって、転生者だ。
嘘をついて矛盾が生まれるより、真実を話そう。
「別の世界から来た」
少女の反応を待つ。
隣の護衛がこの言葉を聞いて、狂人でも見るような目で振り返る。
だが赤髪の少女の表情は、一切動かない。
「名前は」
「天宮零」
少女は一度頷くと、壁から体を起こし、宿駅の奥へ歩いていく。
軍靴が石板を踏む音は、一歩一歩重く響く。
宿駅の入り口で足を止め、振り返らずに呟く。
「包帯はまめに取り替えろ。その傷、蒸らすと悪い」
赤髪の少女が通り過ぎた後、宿駅の扉が閉まる。
零はしばらく立ち尽くし、強く握った右手を緩める。
掌は汗でびっしょり、包帯まで湿っていた。
バルトが車輪から立ち上がり、空の酒壺を持って近寄ってくる。
宿駅の入り口に顎でしゃくる。
「あの娘、誰だか知ってるか?」
「知らない」
「帝国の貴族だ。肩の紋章は見覚えがある、ヴァレリウス帝国の貴族だけのものだ」
バルトは酒壺を腰にしまい、声を潜める。
「まさかお前のこと、気に入っちゃったのか?」
零の顔が一瞬赤くなる。
「ありえない」
バルトは大きく笑う。
「まあ冗談だ。さあ、もうすぐ目的地だ」
ゼル町の城壁は高くはないが、厚みがある。
城門にはヴァレリウス帝国の龍紋旗が掲げられ、風になびいている。
商隊は中央広場で荷物を降ろし、耳の欠けた隊長が零に賃金を渡す。
銀狼貨三枚に晶銭。手に乗せるとずっしりと重い。
バルトは広場の入り口で零と別れ、空の酒壺を肩にかけ、歯の欠けた口で笑う。
「王都へ行くなら、明日早朝に出発する商隊がある。俺の名前を出せば、運賃が五晶銭安くなる」
そう言って手を振り、酒場の方へ消えていった。
零は町で唯一の魔導具屋、銀火堂へ向かう。
店主は片眼鏡をかけたキツネの亜人で、零の短刀を受け取って眺める。
柄の火炎魔晶石は欠片に過ぎず、懐中電灯代わりか、せいぜい刃を少し熱くする程度だと告げる。
手の赤い筋の出所を調べられるか訊ねると、亜人は眼鏡を押し上げる。
「アタロール図書館だ。王都一の図書館で、四階建て。上の二階は貴族専用だ。
もしその傷に由来があるなら、あそこでしか調べられない」
少し間を置いて付け加える。
「だが、まず貴族と知り合わなければならない」
零は礼を述べ、新しい包帯を買って右手を巻き直す。
赤い筋は手首の内側まで伸び、分かれた先が植物の根のように広がっている。
熱を感じる。痛みではなく、皮膚の下で何かが呼吸しているような、じんわりとした熱だ。
夕暮れ、安い宿屋に泊まる。
一階は酒場を兼ねており、零が隅で煮込み料理を食べていると、隣のテーブルの商人たちが低い声で話しているのが聞こえてくる。
「三日前の前哨基地襲撃の話だ」
「衛兵十二人、全て剣で一撃で即死だ」
「犯人はまだ捕まっていない。黒髪の男だという噂で、剣の速さが見えないらしい」
零がスプーンを置き、耳を澄まそうとした瞬間、酒場の扉が開く。
店内の全員が、一瞬で静まり返る。
入り口には赤髪の少女が立っていた。
黒いマント、腰の長剣。紫色の瞳が店内をなぞり、最後に零の方で止まる。
酒場の喧騒が音を絞られたように静まり、商人たちはコップに顔を埋め、少女と目を合わせようとしない。
赤髪の少女は零の向かいに座り、グラスをテーブルに置く。
「明日、王都へ行く」
「……ああ」
「王都に着いたら、アストライア邸を訪ねろ」
グラスの酒を一気に飲み干し、立ち上がる。
少女は入り口へ向かって歩き、靴が木の床を重く踏む。
扉を開ける直前に足を止め、振り返らずに呟く。
「逃げるなよ。王都では、お前を探し出せない場所なんてない」




