第15話 なぜ
夕暮れ
空一面が真っ赤に染まっていた。
重たいブーツが、公爵邸の門前の石畳を踏む。
目に映るのは、雄大ながら生気の失われたこの屋敷だけだ。
茶髪の青年の瞳には、焦点がない。
「当主様、お帰りなさいませ」
門の両側に並んだメイドたちが、深く頭を垂れる。
恭しい声は、まるで耳元を掠める冷たい風のようだった。
トン、トン。
磨き上げられた大理石の床を靴底が叩く音。重たい残響が、一階の大広間に響き渡る。
視線の先、中央に掛けられた巨大な肖像画。
威厳ある男の姿。
――父と呼ぶ、男だ。
足が唐突に止まる。
「……」
渇いた喉から、声は出ない。
ただ見つめ続ける。
絵を穿ち抜こうとするかのように、じっと見据えて。
胸が締め付けられ、息苦しい。
ほんの数秒、立ち止まっただけだ。それからまた視線を外し、歩き出す。
トン、トン。
階段を上り、二階へ。次男の寝室の扉の前に立つ。
扉を押し開ける。
「兄さん、帰ってきたのか」
いつも通り、ほんのり気軽な呼びかけ。
ペドロは虚ろな目で目の前の男を見つめた。
「……ノラのことについて」
掠れた、自分でも見覚えのない声が漏れる。
「お前は、どこまで知っている」
「え?」
男の動きが固まる。表情が一瞬にして凍りつき、戸惑いが瞳に広がった。
パチッ。
澄んだ鈍い音と共に、男は床に倒れる。頬には鮮やかな赤い腫れが浮かぶ。
起き上がる間もなく、襟元を強く掴まれ、引きずり上げられた。
「なぜ……」
傷ついた獣のような唸り声が、歯の隙間から滲み出る。
「なぜ、何も話してくれなかった……!」
ドン――!
腹部に激しい衝撃が走り、体が痙攣する。容赦のない一撃が、青年の腹に叩き込まれた。
「ぁ……」
ペドロは冷たい床に座り込み、視界が揺れる。
「俺が話さなかったって?」
男は荒い息を吐き、怒りと抑えきれない感情に声を震わせる。
「お前が引き起こした数々の事柄を、なぜ俺たちが背負わなきゃならないんだ!」
次の瞬間、背中が勢いよく壁にぶつかる。
体を押さえつけられ、身動きが取れなくなった。
血走った目が、鋭くこちらを見据える。
「父が、どうして死んだか知っているか」
「――お前の選択が、原因だ」
空気が、その場から完全に抜け落ちたかのようだ。
脳が真っ白になる。
「だったら……なぜ、最初から話してくれなかった」
かろうじて聞き取れる、細い囁き。
ドスン!
体が古い布袋のように勢いよく投げ飛ばされる。
慣性に従って廊下へ転がり出る。
骨が床にぶつかる痛みが、全身に広がる。
「まだ分からないのか!」
怒鳴り声が廊下に響き渡る。
二人は転がり、絡み合う。
服が引き裂かれ、拳が肉に叩きつけられる。
「お前たちだけで抱え込むな!」
青年も叫び返し、反撃する。
目がくらくらする。
揉み合いながら階段を転がり落ち、鈍い衝突音が絶え間なく響く。
「お前が知ったところで、何の意味がある!」
転がり続け、殴り合い続け。
やがて邸の門を抜け、中庭に転げ落ちた。
目眩が収まらない。荒い息をしながら顔を上げる。
空は、相変わらず胸悪くなるような真っ赤に染まっている。
その刺すような赤の下、一人の赤毛の少女が遠くに佇んでいた。
「ペドロ……」
ブワッ――
脳内に耳をつんざくような轟音が広がる。
視界は一層濃い血色に覆われた。
少女の姿を捉えた瞬間、体が意識に先んじて動き出す。
ゆっくりとノラの元へ歩み寄る。
「ノラ……」
目の前に立ち、手をゆっくりと掲げる。
宙に浮かべたまま、そして――
少女に飛びかかる。
そのまま、勢いよく細い首を掴み締めた。
「なぜ……」
力を込める。さらに強く。
力み過ぎた指の関節は白く浮く。
「なぜなんだ……!」
視界が霞む。
耳元から、少女の細い声が微かに届いてくる。
途切れ途切れで、何を言っているのか分からない。
爪が皮膚に食い込む。
指先に伝わる温もりと、弱まりゆく鼓動だけが残る。
二分ほど経った頃、掌の中の躍動は次第に静まり、やがて完全な沈黙に包まれた。
少女の腕が力なく垂れ、動かなくなる。
「……」
風が吹き抜け、頬に冷たい感触が残る。
愕然として、瞳が激しく収縮する。
頭の中で何かが弾け、理性が潮のように押し戻ってくる。
呆然と自分の両手を見つめ、崩れ落ちた姿を見下ろす。
「ノラ」
声が震える。
「ごめん……」
地に跪き、冷めゆく体を強く抱きしめる。
「――後悔している?」
唐突に、背後から声が響いた。
「?」
涙で視界がぼやけたまま、振り返る。
ぼんやりと、見知らぬ少女が自分を見下ろしている姿が捉えられる。
まるで傍観者のように。
「……後悔している」
脳で考える間もなく、言葉が零れ落ちた。
(俺は、今……何をした?)
苦しみの中で理性がもがく。
(どうして、彼女の首を……掴んでしまった?)
少女の声が再び響く。
「私を信じて」
(どうしてだか、俺は……)
「信じる……」
言葉が途切れる刹那、眼前の世界が底知れぬ闇に飲み込まれた。
――
光。
風の感触。
目を開けると、刺すような陽光に瞳がきゅっと縮む。
「?」
息が詰まる。
遠くに、無事なノラの姿。そして隣に弟が立っている。
まるで幻のようだ。
否。
体は再び意識を置き去りに動き出す。
ノラの元へ歩み寄り、迷いなく赤い姿を強く抱きしめた。
「ごめん……」
ペドロは繰り返し呟く。
少しでも力を緩めれば、彼女が泡のように消えてしまう気がして、ぎゅっと抱き締め続ける。
ノラは一瞬戸惑う。
腕の中で激しく震え、泣き崩れる青年を見て、多くは語らず。
ただ手を上げ、柔らかく背中を何度も叩いた。
「大丈夫よ……ペドロ」
優しい声。
それは確かな、現実の感触だ。
すぐそばに、あの謎の少女がまだ佇んでいる。
視線の端に捉え、少女の唇が動くのが見える。
何かを囁いているようだ。
その瞬間――
「あぁぁっ!」
頭蓋骨が引き裂かれるかのような激痛が襲う。
青年は頭を抱え、切り裂くような絶叫を上げる。
少女の声が、逃れられぬ呪いのように、脳の奥底で延々と繰り返される。
何度も、何度も。
『こんにちは、零……』
第一章 了




