第1話:お姉ちゃんは読み聞かせたい
第1話:お姉ちゃんは読み聞かせたい
生温かい藁の匂いと、ザラついた粗布の感触が、背中の皮膚をごわごわと押し上げていた。 木組みの天井の隙間から、埃の粒を白く照らす朝の光が斜めに落ちてくる。窓枠の僅かな隙間から忍び込んでくる冷たい朝気が、露出した頬をちくりと刺した。 奥の台所からは、パチパチとはぜる薪の煙の匂い。それに混ざって、鍋でことこと煮立つミルク粥の甘く重い湯気が、居間の方へと漂っている。
――朝だ。 二度目の人生の、目が眩むほど素朴な朝。
(……くっ、重い……! なんだこの質量は!?)
目が覚めた瞬間から、全身にまとわりつく圧倒的な不自由さ。 起き上がろうと腕に力を込めた瞬間、ふにゃりと肘が折れて藁の海に顔から沈んだ。首すら満足に固定できず、視界がぐらりと揺れる。 下腹部を締め付けるのは、布を何重にも折り畳んだ手作りのおむつの湿った重み。
(ヒエッ……! 寝返りすら打てねえ! 前世の記憶が戻ったところで、手足の出力が初期値のマイナス百じゃねえか! 転生特典で無双どころか、自力でトイレにも行けずに野垂れ死ぬハードモードすぎるだろ……!)
内心で冷や汗を流しながら、俺はジタバタと手足をばたつかせた。 前世の三十年近い人生経験があろうと、神経と筋肉の配線がまるで繋がっていない。頭の中で「右腕を上げろ」と命令しても、動くのはせいぜい人差し指の先端がピクピク跳ねる程度。自分の体なのに、他人の肉塊を押し付けられたかのような生々しい無力感に、背筋が寒くなる。
この脆弱な器のまま、魔導書作家を目指す? 笑わせるな。まず生き延びることすら綱渡りだ。
「あーちゃん! 起きてるの? いい子ねぇ!」
ドタドタと床板を派手に鳴らしながら、満面の笑みを浮かべた六歳の少女――義理の姉であるハピネスが、寝床の横へ勢いよく膝をついた。 寝癖のついた栗色の髪を揺らし、着古した麻のワンピースの裾を擦りながら、俺の顔を覗き込んでくる。その手には、植物染料で極彩色に刷られた一冊の絵本が握られていた。 古びた羊皮紙の油っぽい匂いと、苦みを含んだ植物インクの香りが、鼻腔をくすぐる。
「はい、あーちゃん! 今日もお姉ちゃんが絵本読んであげるからね! お利口さんにしててね〜!」
ハピネスは躊躇なく俺の小さな体を抱き上げると、自分の膝の上へぽすんと座らせた。 背中に触れる彼女の体温は、薪ストーブの火のように温かい。だが、抱きしめる力が純粋無垢に強すぎて、俺の肺の空気が「ぐへっ」と押し出されそうになる。
(ぐあっ……! 姉ちゃん、愛が重い! 骨が軋む! 窒息死する前に力加減という概念を覚えてくれ……!)
悲鳴を上げようにも、喉から漏れるのは「ふぎゅ、うー」という情けない空気の抜ける音だけ。 だが、パニックになりかけた脳の片隅で、前世のしがないプロ作家としての冷徹な分析スイッチが、カチリと音を立てて切り替わった。
(……待てよ。怖いとか苦しいとか言ってる場合じゃないぞ)
ハピネスが胸の前で広げた絵本。 そこに描かれているのは、棍棒を持った毛むくじゃらの小鬼と、光る杖を掲げた旅人の挿絵だ。 そしてその下には、女神ネフティスから授かった唯一のチートのおかげで、完璧に意味が理解できる文字列が並んでいる。
『むかしむかし、ふかいもりに、あたまのわるいゴブリンがすんでいました』
意味は完全に読める。一言一句、脳内で淀みなく日本語へ変換される。 だが、今の俺にはこの文字をどう「発音」するのかが分からない。現地人が喋る共通語の音声データが、俺の脳内辞書にはすっぽりと抜け落ちているのだ。
(文字の形と意味は完全に頭に入っている。足りないのは、この世界の人間がどういう音でこの文字を発音しているかという【音声データ】だけだ……!)
目の前には、絵本を読み聞かせたくてたまらない、やる気満々の六歳児。 この状況は、神が与えた言語チュートリアルそのものではないか。
(よし。恥も外聞も全部捨ててやる。お姉ちゃんの読み聞かせを利用して、【視覚文字×音声発音】の完全同期ハックを仕掛ける……!)
「じゃあ読むわね! えーっと……『む・か・し・む・か・し』……」
ハピネスが人差し指でページの一文字目をなぞりながら、少し舌足らずな声でゆっくりと音を紡ぎ出す。 耳から入る幼い声の響きと、目の前の活字の形状が、火花を散らすように頭の中で結びついた。
(『むかし』に該当する単語の現地音は――『ル・ヴィア』! あの角ばった二つの記号が『ル』と『ヴィア』に対応してるのか!)
「『ふ・か・い・も・り・に』!」 (森の単語は『シルヴァ』! 語尾の助詞で母音が変化する活用形か……! なるほど、文法構造はラテン語と英語のハイブリッドに近いな)
俺は全身の神経を目と耳に集中させ、ハピネスの唇の動きと、指先が追う文字を食い入るように見つめた。 喉が渇き、呼吸すら忘れるほどの情報処理。前世で締め切り前夜にボツ原稿を三万字書き直した時ですら、ここまで脳細胞を酷使したことはない。
「『ゴ・ブ・リ・ン・が』!」 「……あー! うー!」
俺は必死に舌を動かし、ハピネスの唇の形を真似て声を絞り出した。 頭の中では「ゴブリン!」と叫んでいるつもりなのだが、未発達な口腔からは泡混じりの情けない喃語しか飛び出さない。 だが、めげずにハピネスの発音に合わせて「うぐっ」「あーっ」と声帯を震わせ続けた。
「『す・ん・で・い・ま・し・た』!」 「うー! あーぅ!」
一文字読まれるたびに、俺はハピネスの顔と本を交互に見つめ、必死の形相で声を張り上げる。 視覚と聴覚がパズルのピースのように噛み合っていく快感。これならいける。この調子で毎日絵本を何十冊もインプットし続ければ、二歳になる前には共通語のリスニングと発音の基礎を完全に構築できるはずだ。
(完璧だ……! 俺の言語ハック作戦は完璧に機能している! さあ姉ちゃん、次のページだ! もっと単語を寄越せ、もっと音を聞かせろ……!)
作家としての執念を瞳に宿し、鼻息を荒くして次の行を睨みつけた、その時だった。
ふいに、読み聞かせの声がピタリと止まった。
「……?」
不審に思って顔を上げると、ハピネスが絵本を両手に持ったまま、ポカンと口を開けて固まっていた。 その顔が、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。
(……え? なに? どうした? まさか一歳児にしては目つきがガチすぎて、中身が三十路のラノベ作家だってバレたか……!?)
内心で冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘を打つ。 取り繕うように愛想笑いを浮かべようとした瞬間――
「キャーーーーッッ!! ママ! ママ見てぇぇぇ!!」
ハピネスが鼓膜を突き破るような黄色い大絶叫を上げ、俺の体を全力で抱きしめてきた。
「ぐへぇっ!?」 「ママ! あーちゃんがね、私の顔をじーっと見つめて、一言読むたびに一生懸命お返事してくれるの! お姉ちゃんの真似っこして、お口をパクパクさせてるのよ! か、可愛すぎるぅぅぅーーっ!!」
ハピネスは興奮のあまり、俺の頬に自分の頬をスリスリと激しく擦り付けてきた。摩擦熱で肌が擦り切れるかと思うほどの猛烈なスキンシップ。
「あらあら、ふふっ。アルスちゃん、もうお姉ちゃんの言葉が分かるのかしらね」
台所から、木べらを片手に持った母セフィルスが、目を細めて穏やかに笑いながらやってきた。 湯気を立てる木椀からは、ミルクと煮込んだ麦の優しい甘い匂いが立ち上っている。
「本当に賢い子ねぇ。ハピネス、いいお姉ちゃんね。朝ごはんの前に、アルスちゃんのおむつを替えてあげてくれる?」 「うんっ! 任せてママ! あーちゃん、お姉ちゃんが綺麗にしてあげるからね〜!」
ハピネスは鼻息を荒くしながら、手際よく俺をごろんと仰向けに寝かせた。
(……違えよ……真似っこして喜んでたんじゃなくて、言語データを収集してただけなんだよ……!)
六歳の少女に下半身を丸出しにされ、手際よく新しい布を当てがわれながら、俺は羞恥心で顔から火が出るほど赤面した。 言葉の習得への道は確かに開けた。 だがそれと引き換えに、元作家の尊厳が朝の光の中で音を立てて砕け散っていくのを、俺は成す術もなく見つめるしかなかった。
第1話 了
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