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プロローグ:星を掴み損ねた男と、はじまりの掌

プロローグ:星を掴み損ねた男と、はじまりの掌


冷たかった。 息を吸うたびに、肺の奥が凍てつくような冬の闇夜。 村はずれにひっそりと佇む、石造りの粗末な女神教会の裏手。冷たい夜風が木々を揺らす暗がりに、付与魔術師のアルトは一人、外套の襟を立てて立っていた。 目の前には、深くフードを被り、気配を殺した黒衣の男。その腕には、上等な羊毛の毛布に包まれた、小さな、本当に小さな赤子が抱かれていた。


「……話は手紙の通りだ、付与師アルト」


男の声には抑揚がなかった。 足元に落とされた革袋が、ずしりと重い金属音を立てる。隙間から覗くのは、鈍い黄金の輝き。一生を遊んで暮らせるほどの金貨だった。


「とある高貴な領主様が、妾(めかけ)に産ませた子だ。家中の事情により、表に出すことは叶わん。……王国から遠く離れ、善良な職人が暮らすこの地に、ひっそりと預けたい。この金は養育費だ。詮索は無用。ただ、この地で普通の平民の子として育て上げろ」


アルトは鍛えられた職人の目で、男と赤子をじっと見据えた。


(……嘘だな)


身のこなしは、ただの領主の従者ではない。王都の暗部か、手練れの傭兵のそれだ。 それに、毛布の隙間からわずかに見えた産着の布地――並の貴族すら扱えない、王室御用達の極上絹の肌触り。 ただの領主の妾腹の子などではない。王国の権力中枢、血塗られた陰謀の匂いがプンプンと漂っていた。


(引き受ければ、いつか恐ろしい火の粉が我が家に降りかかるかもしれん……)


アルトの眉間に深い皺が刻まれる。 自分には愛する妻のセフィルスがいる。今年で五歳になる、目に入れても痛くない娘のハピネスもいる。見ず知らずの赤子のために平穏な家族を危険に晒すわけにはいかない――そう断ろうと口を開きかけた、その時だった。


「……ふ、ぁ……」


毛布の合間から、透き通るような小さな白い手が伸びてきた。 その頼りない手が、迷うように空を彷徨い、アルトの無骨な人差し指に触れた。 ぎゅっ、と、ありったけの力で握りしめてきたのだ。


「っ……!」


アルトの喉が詰まり、息が止まった。 指先から伝わってくる、驚くほど柔らかく、温かく、トク、トクと脈打つ小さな命の鼓動。 赤子は閉じていた瞼をうっすらと開け、夜空の星のように澄んだ瞳で、じっとアルトを見上げていた。


助けてくれ、と縋り付かれたような気がした。 こんな小さな体で親元から引き離され、暗闇の中を運ばれてきたのだ。


(……ああ、くそ。駄目だな、俺は)


胸の奥にあった打算や警戒心は、その小さな手のぬくもり一つで、跡形もなく溶けて消えてしまった。 職人としての頑固さも、父親としての理屈も、このか弱い命の前には何の意味もなさなかった。


アルトは険しい表情を緩め、男から赤子をそっと、壊れ物を扱うように両腕に抱き取った。


「……分かった。金はありがたく受け取ろう。だが、勘違いするなよ」


アルトはフードの奥の男を鋭く見据えた。


「金のために引き受けるんじゃない。この子は今日から、俺の息子だ。誰が何を企んでいようと、この村にいる限り、俺が命に代えても守り育てる」


男は短く息を呑み、「……恩に着る」と言い残すと、夜の闇の中へ溶けるように姿を消した。


外套の前を合わせ、腕の中の赤子を冷たい風から守るように包み込んで、アルトは急ぎ足で我が家へと戻った。 木造の小さな家の扉を開けると、薪ストーブのパチパチとはぜる音と、ハーブを煮出した温かい湯気がアルトを迎えた。


「あなた、お帰りなさい。……あら?」


ランプの柔らかな灯りの下で編み物をしていた妻のセフィルスが、顔を上げた。 アルトが胸元から、そっと毛布に包まれた赤子を取り出すと、セフィルスは目を丸くした。


「あなた……その子は?」


「セフィルス、すまない。相談もなしに連れてきてしまった。……事情があって、親元にいられなくなった赤子だ。俺たちの手で、育ててやりたいんだ」


すべてを語ることはしなかった。危険を分かち合いたくなかったからだ。 だが、セフィルスは夫の目をじっと見つめると、深く詮索することなく、ふわりと穏やかに微笑んだ。


「まあ……なんて愛らしくて、綺麗な顔立ちの子かしら」


立ち上がったセフィルスは、冷えた赤子の体を優しく抱きしめた。その温かい母の胸に抱かれると、赤子は安心したように「くぅ……」と小さな吐息を漏らした。


「深い事情があるのでしょう? でも、いいのよ。こんなに可愛い子なんですもの。生活に困っているわけでもないですし……ようこそ、私たちの家へ」


セフィルスの瞳に、優しい涙が滲んでいた。夫の優しさを誰よりも知っている妻は、赤子を一目見ただけで、我が子として受け入れることを心から快諾してくれたのだ。


その時、寝室のドアがギィと開き、小さな足音がトテトテと近づいてきた。


「パパ……? ママ……? なんだか、にぎやか……」


目をこすりながら現れたのは、五歳になる娘のハピネスだった。 お気に入りの布を抱きしめながら、両親の間にいる小さな包みを見て、不思議そうに首を傾げた。


「パパ、その包み……なあに? まさか、新しいぬいぐるみの材料?」


「違うよ、ハピネス。おいで」


アルトが膝をついて手招きすると、ハピネスはおずおずと近づいてきた。 セフィルスが腕を少し下げ、ハピネスに赤子の顔を見せてあげる。


「ハピネス、よく聞いてね。今日からこの子はね、ハピネスの弟になるのよ」


「おとうと……?」


ハピネスはぱちくりと目を瞬かせ、眉を寄せて赤子をじーっと見つめた。 すると、赤子がふにふにと小さな手を伸ばし、ハピネスの小さな指を、またぎゅっと握りしめた。そして、ふにゃりと天使のように笑ったのだ。


ハピネスの頬が一瞬でぽっと赤く染まる。


「……っ! 私の手、握ってくれた……! 笑った!!」


弾かれたように、ハピネスは飛び跳ねて両親を見上げた。


「パパ! ママ! 私、お姉ちゃんになるの!? 私がお姉ちゃん!?」


「ええ、そうよ。頼りにしてるわよ、お姉ちゃん」


「うんっ!! 私、立派なお姉ちゃんになる! この子に可愛いお洋服も、かっこいいぬいぐるみも、みーんな私が作ってあげるんだから!!」


小さな胸を張って宣言するハピネスの姿に、アルトとセフィルスは顔を見合わせて笑い声を上げた。


「さて……そうなると、名前を決めないとな」


アルトが愛おしそうに赤子を見つめた。


「名前のない子だ。この子の新しい人生のために、俺たちの家族としての名前を贈ろう」


「ええ、そうね。どんな名前がいいかしら?」


アルトは少し考えて、優しく口を開いた。


「俺の名前はアルト。お前の名前はセフィルスだ」


無骨な指先で赤子の額を優しく撫でる。


「俺の『アル』と、お前の『ス』を取ろう。夫婦二人の愛情を半分ずつ分け合って、真っ直ぐ育ってほしいという願いを込めて……『アルス』はどうだろうか」


「アルス……」


セフィルスはその名を口の中で転がし、嬉しそうに目を細めた。


「アルス……とても素敵な名前ね。アルトとセフィルスの子、アルス」


ハピネスも赤子の顔を覗き込み、嬉しそうに何度も名前を呼んだ。


「アルスちゃん! アルス! 私がお姉ちゃんのハピネスよ! よろしくね、アルス!」


名前を呼ばれた赤子――アルスは、まるで自分の名前を理解したかのように、嬉しそうに小さな手足をバタバタと揺らした。 外は冷たい風が吹き抜ける暗闇だったが、工房兼自宅のリビングには、暖炉の炎よりも温かい家族の光が満ちていた。


こうして、名もなき赤子は、世界で一番温かい家族の「アルス」として迎え入れられたのだった。


* * *


……という、全米が涙しそうな超絶感動的名付けエピソードがあったらしい。


だが、前世の俺には、こんな温かい記憶なんてひとつも残っていなかった。四畳半の安アパートで、誰にも看取られず消えていった孤独な毎日。だからこそ、この光景がどれほど眩しいものか、赤子の脳みそにすら、なぜか痛いほど分かった気がした。


らしい、というのは、当時の俺にはそんな記憶がこれっぽっちも残っていないからだ。生後まもない赤ん坊の脳みそに記憶容量などあるはずがない。 俺の意識がうすらぼんやりと明瞭になってきたのは、それから約一年が経ち、一歳児になってからのことだった。


地球での俺は、しがない二流のライトノベル作家だった。 冒険譚、英雄譚、ラブコメ……色々なジャンルに手を出してはみたものの、どれもこれも鳴かず飛ばず。作風自体の評価は決して悪くなかったはずなのだが、とにかく数字が取れなかった。ランキングの底辺を這いつくばり、右肩下がりのPVグラフを眺めては胃を痛める日々。 死因すら覚えていない。締め切りのプレッシャーでポックリ逝ったのか、過労で倒れたのか。 だからこそ、魂の奥底に焼き付いていたのは――「とにかくバズりてぇ! 圧倒的なPVが欲しい!!」という、ドロドロに煮詰まった承認欲求の亡霊だけだった。


血の繋がりなどないこの家族がくれた無償の愛情に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


(……この家族のためにも、今世こそは絶対に成功してやる)


前世の孤独を埋めるように、俺は小さく誓いを立てていた。


そんな俺が一歳になったある日、まどろむ頭の中に一度だけ、妙に尊大な声が直接響いてきたのだ。


『えー、ごほん。われは、生を司る女神ネフティス。文字を理解できるチートを授けたからラノベを書くのだぞ』


……寝ぼけていた俺は「なんだこのロリババア口調の幻聴は……」と完全にスルーして二度寝をキメてしまったのだが、そのチートの威力を思い知る瞬間はすぐにやってきた。


短い手足でペタペタと床をハイハイし、母さんが寝かしつけ用に部屋の隅に置いていた一冊の絵本に辿り着いた時のことだ。小さな手で器用にページをめくった瞬間、俺は息を呑んだ。


(……読める。読めるぞ!?)


そこに並んでいたのは、地球の日本語でも英語でもない、見たこともない異世界の文字。 なのに、その文字が脳内にスルスルと自然な日本語の意味として流れ込んでくるのだ。殴り書きだろうが活字だろうが、紙に書かれた文字なら完璧に理解できる。


「う、うおお……! 転生特典のチート、マジであったのかよ……!」


叫ぼうとしたが、口から出たのは「あー、うー」という情けない幼児の喃語だった。 ……そう、このチートには致命的な穴があった。 『活字は完璧に読めるが、発話(喋ること)も、耳で聞く言葉の理解もできない』のだ。一歳児の肉体は耳も声帯も未発達。母さんが優しく読み聞かせてくれていた声も、俺にとってはただの「もごもごした心地よい環境音」にしか聞こえていなかった。文字の意味は分かるのに、この世界の言語の「音」が全く分からない。


(おいおい女神さま、テンプレラノベの読みすぎか? サービス精神が悪すぎるだろ……!)


内心でツッコミを入れつつも、文字が読めると分かった俺は俄然テンションが上がっていた。 調子に乗った俺は、短い手足を必死に動かして部屋を脱出し、廊下をペタペタとハイハイで進んで父さんの工房へと忍び込んだ。机の端に積まれていた、分厚い革表紙の本――『魔力の理』という本に手を伸ばし、小さな手でめくっていく。


そこに記されていたのは、この世界の驚くべき魔法の仕組みだった。 なんとこの世界では、誰もが呪文を唱えれば魔法を使えるわけではない。魔法使いが術式を封じ込めた『魔導書』を手に取り、開封の言葉を唱えることで初めて魔法を習得・発動できるのだという。 そして、その魔導書を新しく書き下ろす存在――『魔導書作家』。 彼らが記した魔導書は世界中に流通し、人々の生活を支え、冒険者を英雄へと押し上げる。この世界における魔導書作家とは、地球のベストセラー作家どころではない、世界最高峰の花形職業だった。


(……これだ)


全身を駆け巡るような電撃の衝撃。前世で飢えに飢えていた物書きの魂が、激しく燃え盛るのを感じた。


(魔導書を……書きたい!!)


地球文明の知識や、前世で培った物語の構成力を注ぎ込んだ、世界一面白い魔導書を書き上げてやる。 そして今度こそ、世界中を熱狂させて、桁違いのPVと名声をかっさらって大バズりしてやるんだ!


燃え上がる野望に、一歳の俺は小さな拳をギュッと握りしめた。 ……だが、ページをさらにめくった瞬間、俺の思考は完全に停止した。


そこには、太字でこう記されていたのだ。


【大原則:魔導書を執筆するには、その魔法を自分自身が習得していなければならない】 【開封条件:魔導書を開封するには、自身の魔力レベルがその魔導書のレベルに達していなければならない】


……要するに、だ。 魔導書を書いてバズるためには、まず自分が魔法を覚えなきゃいけない。魔法を覚えるためには、魔導書を買って読まなきゃいけない。魔導書を読むためには、魔力レベルを地道に上げなきゃいけない。 そして現在の俺は――魔力ゼロ、レベルゼロ、おむつ着用の1歳児。


「……テンプレ無双、どこいった???」


チートで最初から最強魔導書を量産してウハウハ……なんて甘っちょろい妄想は、木っ端微塵に打ち砕かれた。 言葉もろくに喋れず、体力もなくて数分ハイハイしただけで寝落ちする赤ん坊の体が、俺の冷厳な現実だった。


魔導書作家になりたくて、異世界に転生した元二流作家の俺。 まずはこの非力な肉体で、泥を啜るような努力で魔力とレベルを地道に鍛え上げ、成り上がっていくしかないという、なかなかつらい決断を目の当たりにしたのだった――。


プロローグ 了


生まれ変わってすぐの赤ん坊には何もできませんが、読者様にはひとつだけできることがあります。「いいね♡」と「お気に入り登録」、どうかよろしくお願いします。


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