第95話 また真田道場に来た話
■真田家・門前
週末。
朝比奈恒一は、真田道場の門の前に立っていた。
「……」
少しだけ息を整える。
前に来た時より、妙に緊張していない。
それが自分でも少し不思議だった。
「失礼します」
門をくぐる。
その瞬間。
「あら」
やわらかい声が飛んできた。
真田真紀子だった。
巴の母。
いつも通り、穏やかな笑みを浮かべている。
その隣には、祖母もいた。
「朝比奈さん」
「はい」
「久しぶりですね」
「お久しぶりです」
恒一が頭を下げる。
真紀子は、どこか嬉しそうだった。
「こんにちは」
祖母も笑う。
「来ると思ってたよ」
「……そうなんですか」
「うん」
即答だった。
「……」
(なんでだ)
恒一が少し考えていると、廊下の奥から足音がした。
「……」
巴が出てくる。
今日は道着姿だった。
長い黒髪を高い位置でまとめ、すらりとした長身に白い道着がよく似合っている。
普段の制服姿よりも、真っすぐな強さが分かりやすい。
道場の空気の中に立つと、巴はやはりよく映えた。
「……」
一瞬、目が合う。
前みたいな気まずさは、少し薄い。
ただ、朝の廊下のことを思い出したのか、巴はすぐに少しだけ視線を逸らした。
「……来るなら、先に言ってよ」
「悪い」
「母さんたち、朝からちょっと楽しそうだったし」
「……?」
恒一は少し考える。
それから、真紀子と祖母を見る。
二人とも微笑んでいた。
「……そうなんですか」
「ええ」
「そうだよ」
二人が自然にうなずく。
(そうなのか)
恒一は納得した。
何に納得したのか、自分でも少し分からなかった。
「まあいいや」
巴が小さく息を吐く。
「入りなよ」
「お邪魔します」
恒一は道場の方へ視線を向けた。
今日は、稽古をするつもりで来ている。
前に来た時も、結局台所にいる時間が長かった。
だから今日は、ちゃんと道場へ行くつもりだった。
「……」
道場の方を見ると、奥に師匠がいた。
巴の祖父だ。
恒一と目が合う。
「……」
恒一は軽く頭を下げた。
師匠は、少しだけ目を細める。
それから、ゆっくり首を横に振った。
今日は無理だ。
そんな顔だった。
「……」
恒一は少し考える。
(今日は無理なのか)
納得しかけた、その時。
「朝比奈さん」
真紀子が、にこりと笑う。
「今日も、こちらです」
「……」
案内されたのは、道場ではなかった。
台所だった。
■真田家・台所
「……料理ですか」
「はい」
真紀子は嬉しそうにうなずいた。
祖母も横で笑っている。
「この前の続き、気になっててねぇ」
「なるほど」
恒一は自然に袖をまくった。
その動きを見て、巴が少し呆れた顔をする。
「なんでそんな馴染んでるんだよ……」
「料理は好きだからな」
「そういう問題かな……」
恒一は台所の配置を見た。
包丁。
まな板。
火口。
調味料。
前に一度使ったから、だいたいは覚えている。
「何を作りますか」
「今日は、下ごしらえを少しお願いしてもいいかしら」
「分かりました」
恒一がうなずく。
巴は、もう一度小さく息を吐いた。
その時。
廊下の奥から、じっとこちらを見る影があった。
「……」
巴の父だった。
腕を組んでいる。
完全に監視状態だった。
「……」
恒一と目が合う。
父は無言で近づいてきた。
「……包丁」
「はい」
恒一が包丁を手に取る。
父はその持ち方を見る。
「……悪くない」
「ありがとうございます」
父はうなずいた。
けれど、次の瞬間。
巴を見る。
恒一を見る。
また巴を見る。
眉間にしわを寄せる。
そして、何も言わずに少し離れた。
「忙しいな、父さん……」
巴がぼそっと言う。
「機嫌悪いのか?」
「悪い」
即答だった。
「でも料理には参加したいんだよ」
「なるほど」
「納得するんだ」
巴が呆れたように言った。
そのあと、自然と会話が続いた。
味付け。
火加減。
切り方。
真紀子も祖母も、楽しそうだった。
恒一は、聞かれたことに淡々と答えながら手を動かす。
野菜を切る音が、台所に規則正しく響く。
「朝比奈さん」
真紀子が、ふと笑った。
「やっぱり、ちゃんと考えて作るんですね」
「……まあ」
恒一は少し考える。
「食べる人のことは考えます」
「……」
巴が止まった。
祖母が小さく笑う。
真紀子も、少しだけ目を細めた。
一方、父だけが。
ものすごく複雑そうな顔をしていた。
「……それは」
父が低く言う。
「大事だ」
「父さん」
巴が横目で見る。
「いや、大事だ」
「分かったから」
台所に、小さな笑い声が広がった。
「……」
巴は、その光景を見る。
母。
祖母。
恒一。
そして、なぜか普通に混ざろうとしている父。
(……なんなんだこれ)
少し前まで。
こんな空気は想像もしていなかった。
道場に来たはずなのに、台所にいる。
母と祖母は楽しそうで。
父は複雑そうで。
恒一は普通に料理をしている。
騒がしくて、距離が近くて。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「……まあ」
巴は小さく息を吐く。
「前よりは、悪くないか」
「何がだ?」
恒一が聞いた。
「なんでもない」
「そうか」
恒一は素直にうなずく。
その返事がまた恒一らしくて、巴は少しだけ視線を逸らした。
「……でも」
恒一がふと思い出したように言う。
「最近、道場に来ても料理しかしてないな」
一瞬、全員が止まった。
「……は?」
巴が固まる。
「確かに」
恒一は真面目に考えている。
「剣道をしに来てるはずなんだが」
「今気づいたのかよ!」
巴のツッコミが飛ぶ。
真紀子が吹き出す。
祖母も肩を揺らして笑った。
父だけが真顔だった。
「……料理も大事だ」
「父さん、混ざるな!」
巴の声に、また笑いが起きる。
恒一は少し考えてから、まな板の上の野菜を見る。
「じゃあ、料理が終わったら稽古か」
「普通は逆だろ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
巴が呆れたように返す。
けれど、その声は以前より少し柔らかかった。
台所の中に、包丁の音と笑い声が混ざる。
また真田道場に来た。
そのはずなのに。
今日もなぜか、恒一は台所に立っていた。




