第93話 距離を縮めたかった話
■二年A組前・廊下
朝。
二年A組の前で、朝比奈恒一は廊下に立っていた。
「……」
少し考える。
昨日。
『距離取りすぎ』
『極端』
『不器用』
色々言われた。
「……」
否定はできなかった。
真田を避けているつもりはなかった。
ただ、嫌われたくなかった。
だから、近づきすぎないようにした。
けれど、それが逆に上手くいっていないらしい。
(ちゃんと話そう)
そう決めた。
ちょうど、その時。
廊下の向こうから、真田巴が歩いてきた。
長い黒髪が、朝の光を受けて静かに揺れている。
百九十センチ近い長身。
背筋は真っすぐ伸び、歩き方にも無駄がない。
制服姿でも、その立ち姿には道場にいる時と同じ芯の強さがあった。
「……」
巴も、恒一に気づいた。
一瞬だけ、空気が止まる。
「……おはよう」
恒一が先に言った。
「っ」
巴が少し止まる。
「……お、おう」
微妙にぎこちない返事だった。
「……」
恒一は少し考える。
ここで終わると、また距離が戻る気がした。
昨日、基樹にも彩音にも言われた。
距離を取りすぎ。
極端。
普通に話せ。
つまり。
(距離を縮める)
そういうことだ。
「真田」
「……なんだ」
恒一は、一歩近づいた。
巴が、少しだけ目を瞬く。
恒一は、もう一歩近づいた。
「……」
「……」
近い。
かなり近い。
肩が触れそうな距離だった。
「……朝比奈?」
「最近、避けてるみたいになって悪かった」
「……っ」
巴の肩が跳ねる。
近い。
話の内容も近い。
物理的にも近い。
「いや、その」
恒一は真面目な顔で続ける。
「嫌われたくなかっただけなんだが」
「……」
巴の動きが止まった。
完全に止まった。
顔だけが、少しずつ赤くなる。
「……」
「……」
肩が、本当に少し触れた。
「っ」
巴が小さく反応する。
でも、下がらない。
下がりたい気もする。
けれど、下がると変に意識しているみたいで、それも嫌だった。
「……あ、朝比奈」
「なんだ?」
「……近い」
「距離を縮めた方がいいと言われた」
「……っ」
巴の顔が、さらに赤くなる。
「そ、そういう意味じゃ」
「違うのか?」
「……違う、と思う」
「そうか」
恒一は真面目にうなずいた。
それから、少し考える。
「じゃあ、このくらいか」
もう一歩、近づく。
「近い」
巴が一歩下がる。
恒一も、一歩前に出る。
「……朝比奈」
「なんだ?」
「追ってくるな」
「距離を縮める話だろ」
「縮めすぎだ」
「そうなのか」
「そうだ」
巴はさらに一歩下がった。
恒一も、また一歩近づく。
「……」
「……」
巴の背中が、廊下の壁に軽く当たった。
逃げ場がなくなる。
恒一は、その手前で止まった。
肩が触れそうな距離。
真正面に立たれると、近すぎる。
「このくらいか?」
「近すぎる」
「そうか」
恒一は半歩下がった。
「このくらいか?」
「……まだ近い」
「難しいな」
「難しくしてるのはお前だ」
巴が思わず言った。
その言い方が基樹に似ていて、恒一は少しだけ目を瞬く。
「基樹にも同じことを言われた」
「言われるだろうな」
「そうか」
「……」
巴は小さく息を吐いた。
少しだけ、空気が戻る。
ぎこちないけれど。
前よりは、まだ近い。
昨日までの、必要なことだけ言って離れる距離ではない。
「……まあ」
巴は視線を逸らしたまま言った。
「普通でいい」
「普通」
「そう」
「普通って」
「数字で聞くな」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
「……」
恒一は黙った。
確かに、言いそうではあった。
■二年A組教室・入口付近
少し離れたところで、基樹が頭を抱えていた。
「お前なんで朝からそんな重い話するんだよ……!」
教室のドア付近から見ていた基樹が、低い声で言う。
彩音はその横で、肩を震わせていた。
「ふ、ふふ……」
「彩音、笑ってるだろ」
「笑ってないよ?」
「絶対笑ってるだろ」
「だって、恒一が距離を縮めようとして、本当に距離を縮めるんだもん」
「笑ってるじゃねえか!」
彩音は口元を押さえた。
完全に笑っていた。
「しかも肩触れそうだったよね」
「朝から何してんだよ、あいつ……」
基樹はさらに頭を抱える。
「でも、前よりはいいんじゃない?」
「いいのか?」
「少なくとも、逃げてはいないし」
「まあ、それはそうだけど」
基樹は渋い顔をする。
「極端なんだよ、全部」
「恒一だしね」
「それで済ませるな」
彩音は楽しそうに笑った。
■二年A組前・廊下
「……」
恒一は少し考えていた。
距離を取りすぎるのはよくない。
近すぎるのもよくない。
普通が難しい。
それは分かった。
だが、もう一つ気になっていることがあった。
「真田」
「……今度はなんだ」
「距離を縮める方法として」
「……」
「以前買った指輪を渡すのはどうなんだ?」
今度こそ、間違いなく空気が止まった。
「は?」
基樹が固まる。
彩音も目を瞬いた。
巴の顔が、一気に赤くなる。
さっきまでとは違う赤さだった。
「……なんで指輪?」
巴の声が、少し裏返った。
「距離を縮める方法としていいかと」
恒一は真顔だった。
本気だった。
「悪化するわ!!」
基樹のツッコミが廊下に響いた。
「なんで急に最終イベント行こうとしてんだよ!」
「最後なのか?」
「最後だよ!」
彩音が肩を震わせながら笑う。
「それはもっとこう……色々終わってから使うやつかな……」
「……そうなのか」
恒一は、少し納得した顔をした。
そして、もう一度巴を見る。
「じゃあ」
「……じゃあ?」
「今渡すのはやめた方がいいのか」
「……」
「でも、いずれ渡すとして」
「……」
「その時、受け取ってくれるか?」
「……っ」
巴の顔が、限界まで赤くなった。
嫌われたくない。
距離を縮めたい。
肩が触れそうな距離。
指輪。
いずれ渡す。
受け取ってくれるか。
情報量が多すぎる。
「……お、お前」
巴が何か言いかける。
でも、言葉にならない。
「……受け取らないのか?」
「そ、そういう話じゃない!」
「そうなのか?」
「そうだ!」
「じゃあ、どういう話なんだ」
「聞くな!」
巴は、そう言った直後。
ばっと顔を逸らした。
「……もういい!」
「真田?」
「知らん!」
次の瞬間、巴はそのまま廊下を走って逃げた。
長い黒髪が揺れる。
まっすぐな背中が、朝の廊下の向こうへ遠ざかっていく。
「……」
恒一は、その背中を見送った。
「……」
基樹も、彩音も、しばらく何も言えなかった。
数秒後。
「逃げたな」
恒一がぽつりと言った。
「逃げるだろ!!」
基樹のツッコミが、朝の廊下に響いた。
「なんで今の流れで受け取ってくれるか聞けるんだよ!」
「確認した方がいいかと思って」
「今じゃねえ!!」
彩音は、もう完全に笑っていた。
「ふふっ……無理……」
「彩音、笑ってる場合か!」
「だって、巴が走って逃げるの初めて見たかも……」
「笑ってる場合じゃねえって!」
恒一は少しだけ考える。
(……やっぱり難しいな)
一方、基樹は真顔で思っていた。
(絶対まだ悪化してるだろ、これ……)
彩音だけが、楽しそうに笑いをこらえていた。




