第90話 普通にすごかった話
■陸上競技場
夕方。
陸上競技場には、大会が終わったあとの空気がまだ少しだけ残っていた。
「……」
朝比奈恒一は、静かに息を吐いた。
汗。
疲労。
足は重い。
けれど、嫌な重さではなかった。
走り終えたあとの、ちゃんと使った感覚。
それが、まだ身体の奥に残っている。
電光掲示板に、順位が表示された。
「……」
一瞬、周囲がざわついた。
「え、朝比奈入った?」
「マジか」
「関東行ったぞ、あいつ」
「あいつ、まだ始めて半年くらいだろ?」
「普通にやばくね?」
声が重なる。
恒一は、少しだけ目を瞬いた。
隣にいた佐々木光一が、静かに笑う。
「やるじゃん」
「……どうも」
恒一は短く返した。
「いや、もっと喜べよ!」
近くの陸上部員が、恒一の肩を叩く。
「……?」
恒一は首をかしげる。
「お前、普通にすげえんだからな!?」
「そうか」
「そうか、じゃねえよ!」
部員が声を上げる。
けれど、恒一の口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
「……」
それを見た部員が、にやっと笑う。
「絶対今、嬉しいだろ」
「まあ」
「分かりづれえんだよ!」
周囲に笑いが広がった。
恒一は、もう一度だけ掲示板を見る。
自分の名前。
順位。
記録。
それは確かに、そこにあった。
「……」
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
走ってきた。
朝も。
放課後も。
道場に行く日も、行かない日も。
フォームを考えて。
呼吸を考えて。
足の運びを考えて。
前よりも、ずっと考えることが増えた。
それが、結果になっていた。
「……」
「なあ、朝比奈」
別の部員がふと思い出したように言う。
「真田先輩、今年もインターハイ決めてましたよね」
「真田?」
恒一が反応する。
「ああ」
佐々木がうなずいた。
「薙刀と弓道」
「……?」
恒一が止まる。
「陸上も」
「……?」
「全国」
「普通に化け物」
佐々木が真顔で言った。
「……」
恒一は少し考えた。
真田巴。
長身。
薙刀。
強い。
それは知っている。
道場でも、実際に何度も打たれている。
けれど。
「本業、剣道なんですよね」
「そうだな」
佐々木は普通にうなずく。
「最近ちょっと飽きて、あんまり出てないけど」
「意味分かんねえですよね」
陸上部員が、引いた顔で言う。
「本業剣道で、薙刀と弓道と陸上で全国って何なんですか」
「だから化け物って言っただろ」
「……」
恒一は、なんとなく納得した。
強いとは思っていた。
思っていたが。
想像より、ずっとおかしかったらしい。
「真田は、すごいんですね」
「お前も今、普通にすごい側に片足突っ込んでるけどな」
「……そうなんですか」
「そうなんです」
佐々木が笑う。
恒一は、少しだけ困った顔をした。
自分では、まだよく分からない。
ただ、走った。
走って、結果が出た。
それだけだ。
「まあ」
佐々木が言う。
「もうすぐ三年は引退だけどな」
「……」
その言葉に、空気が少しだけ変わった。
三年の引退。
部長。
次の代。
陸上部の中で、少しずつ意識され始めていた話だった。
「だから」
佐々木が、ふと恒一を見る。
「入部してまだ半年だから、難しいところもあるかもしれないけど」
「……はい」
「俺、お前を次の部長に推すつもりだから」
「……?」
恒一が止まった。
周囲の部員も、少しだけ静かになる。
「……真田じゃないんですか?」
「あいつは兼部」
佐々木は即答した。
「兼部してるやつは対象外」
「……そうなんですか」
「そうなんです」
佐々木は笑った。
「それに、真田は真田で忙しすぎる」
「……確かに」
「あと、お前、意外と周り見てるし」
「……」
恒一は少し黙った。
そんなことを、言われたことはあまりない。
どちらかといえば、自分は分かっていないと言われることの方が多い。
彩音にも。
基樹にも。
最近は特に。
「最近変わったよ、お前」
佐々木が静かに言う。
「前より、ちゃんと考えて走ってる」
「……」
「ただ走ってるんじゃなくて、何をどうすればいいか考えてる」
「……はい」
朝練。
フォーム。
呼吸。
足の置き方。
腕の振り。
最近は、前より考えることが増えた。
前までは、ただ走っていた気がする。
でも今は違う。
走るために、考える。
考えながら、走る。
それが少しずつ、面白くなっていた。
「……」
恒一は、グラウンドを見る。
夕方の光が、競技場の端に落ちている。
少しだけ、胸の奥が温かかった。
(……認められた)
そう思った。
「……」
でも、表情はいつも通りだった。
「おい」
部員の一人が、恒一を見る。
「絶対今、嬉しいだろ」
「……まあ」
「だから分かりづれえんだよ!」
また、笑い声が広がった。
恒一は少しだけ目を伏せる。
嬉しい。
たぶん、そうなのだと思う。
自分でも分かりにくいだけで。
確かに、嬉しかった。




