基樹の心配 改稿
その日の夜、公園。
俺は、いつものようにトレーニングをしていた。
ランニング。
腕立て。
腹筋。
スクワット。
決めた分は、全部やる。
全部やらないと、追いつけない気がした。
いや、気がしたではない。
たぶん、追いつけない。
「はっ……はっ……」
息が荒れる。
胸が熱い。
足が重い。
それでも止めない。
公園の外灯が、地面に薄い影を落としている。夜の空気は少し冷たいのに、体だけは熱かった。
(まだ足りない)
真田巴。
あの人は、遠い。
走っても。
鍛えても。
少し名前を呼ばれたくらいでは、まだ全然届かない。だから、積むしかない。
一回でも多く。
一歩でも前へ。
そう思って、もう一度腕立ての姿勢に入った時だった。
「……おい」
声がした。
振り向くと、基樹が立っていた。
「基樹?」
「やっぱりいた」
「何しに来たんだ」
「お前の生存確認」
基樹はそう言って、俺のそばまで歩いてくる。顔は、いつもより真面目だった。
「お前さ」
「ああ」
「やっぱ、やりすぎじゃね?」
その声には、いつもの軽さがなかった。
「別に普通だろ」
「普通じゃねえよ」
即答だった。
「毎日走って、毎日筋トレして」
「ああ」
「その前にバイトもして」
「ああ」
「顔、ずっと死んでるし」
「……」
そこは否定できなかった。
最近、鏡を見ると、自分でも少し疲れていると思う。
目の下が重い。
体も重い。
でも、それは止める理由にはならない。
「そんな無理してまで、やることか?」
基樹が言った。
その言葉に。
少しだけ、胸の奥がざらついた。
「無理してるわけじゃない」
「してるだろ」
「してない」
「してる」
短いやり取りのあと、空気が少し張った。
基樹は、俺をじっと見る。
そして、静かに言った。
「……真田のためだろ」
逃げ場のない言い方だった。
俺は、すぐに答えた。
「そうだ」
隠す意味はない。
恥ずかしいとも思わなかった。
真田に追いつきたい。
真田に名前を覚えてもらいたい。
真田に、少しでも見てもらいたい。
それは、俺の中ではもう決まっていることだった。
基樹は少しだけ視線を逸らした。
「……無理だって」
「は?」
「いや、現実見ろって」
基樹は言いにくそうにしながらも、逃げなかった。
「真田って、かなり遠いぞ」
「知ってる」
「高嶺の花っていうか、もう高いところに咲きすぎて花かどうかも怪しいくらいだぞ」
「それは花なのか」
「例えだよ」
基樹は少しだけ眉を寄せる。
「山下先輩とか見ただろ?」
「ああ」
見た。
嫌になるほど。
真田の周りには、当たり前のようにすごい人がいる。
強いやつ。
速いやつ。
目立つやつ。
ちゃんと自分を持っているやつ。
その中に並ぼうとしたら、今の俺では足りない。
それは分かっている。
「勝てるわけないじゃん」
基樹は笑わなかった。
冗談でもなかった。
だから、その言葉は重かった。
「お前と真田じゃ、まだレベルが違いすぎる」
「……」
「正直、見てるこっちが怖い」
「怖い?」
「そうだよ」
基樹は、少し声を低くした。
「お前が勝手に走って、勝手に無理して、勝手に届かなくて、勝手に傷つくのが」
言葉が、刺さった。
たぶん、基樹は俺を馬鹿にしていない。
笑ってもいない。
心配している。
それは分かる。
分かるからこそ、簡単には流せなかった。
「じゃあ、諦めろって?」
俺の声も、少し低くなった。
基樹は一瞬、言葉を詰まらせた。
それから、ぽつりと言う。
「……傷つくだけだろ」
夜の公園が、静かになった。
遠くで車の音がする。
風で木の葉が揺れる。
基樹は、俺を見ていた。
心配そうな顔で。
本気で。
(ああ、こいつ)
ちゃんと友達なんだな、と思った。
そんなことは前から知っているはずなのに。
今、改めて思った。
基樹は俺を止めたいのではない。
俺が壊れるのを見たくないのだ。
「でも、それでもやる」
俺は言った。
はっきりと。
基樹の目が少し揺れる。
「なんで」
「好きだから」
理由は、それだけだった。
格好いい理屈もない。
勝算もない。
計画も、たぶんかなり雑だ。
でも、そこだけは変わらない。
「勝てるかどうかじゃない」
「……」
「無理かもしれないのも分かってる」
分かっている、真田が遠いことも。
自分がまだ何者でもないことも。
この努力が報われる保証がないことも。
全部、分かっている。
それでも。
「何もしないで終わる方が、無理だ」
基樹は黙った。
俺も黙った。
夜の公園に、沈黙が落ちる。
しばらくして、基樹が小さく息を吐いた。
「……そっか」
それだけだった。
でも、その声は少し寂しそうだった。
「じゃあ、好きにしろ」
基樹は背を向けかける。
でも、すぐに止まった。
「いや、やっぱ好きにしすぎるな」
「どっちだ」
「限度を守れって話だよ」
「限度」
「そう」
基樹は俺を指さす。
「倒れるな」
「倒れない」
「その返事が一番信用できない」
「そうか」
「そうだよ」
基樹は少しだけ呆れた顔をした。
でも、もう怒ってはいなかった。
「今日はもう帰れ」
「まだ残ってる」
「またそれか」
「決めた分はやる」
「じゃあ、半分」
「全部」
「半分」
「全部」
「……お前な」
基樹は頭をかいた。
それから、諦めたようにベンチに座る。
「分かった。じゃあ、あと一セットだけ」
「一セット?」
「一セット。それ以上やったら、俺が止める」
「止められるのか」
「止める。物理的に」
「それは困る」
「なら守れ」
俺は少し考えて、頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは断言しろ」
基樹が疲れたように言う。
俺は最後の一セットに入った。
腕立て。
腹筋。
スクワット。
足は重い。
腕も震える。
でも、フォームだけは崩さないようにする。
基樹が見ている。
余計なことは言わない。
ただ、本当に危なければ止めるつもりなのだろう。
それが分かる。
(まだ届かない)
真田には、まだ遠い。
でも、名前は呼ばれた。
手紙は受け取ってもらえた。
またグラウンドに来てもいいと言われた。
なら、少しずつ積むしかない。
最後の一回を終えたところで、基樹が言った。
「終わり」
「ああ」
「帰るぞ」
「分かった」
立ち上がると、少し足元が揺れた。
すぐに基樹が肩を支える。
「ほら見ろ」
「少しだ」
「少しじゃねえよ」
基樹は呆れながらも、手を離さなかった。
公園を出る。
夜の道を、二人で歩く。
「恒一」
「なんだ」
「お前、本当に馬鹿だな」
「急にひどいな」
「褒めてない」
「分かってる」
「でも」
基樹は前を向いたまま言った。
「ちゃんと本気なのは、分かった」
「そうか」
「ああ」
少しだけ間が空く。
それから基樹は、小さく付け足した。
「だから余計に心配なんだけどな」
「心配するほどじゃない」
「するほどだよ」
「そうか」
「そうだ」
基樹はため息をつく。
「真田がどう思うかは知らないけどさ」
「ああ」
「俺は、お前が無理しすぎて倒れるのは嫌だからな」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなった。
「……分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「だから断言しろって」
基樹がまた呆れる。
俺は少しだけ笑った。
基樹も、少しだけ笑った。
無茶をしている自覚はある。
でも、やめるつもりはない。
それでも。
倒れたら困ると言ってくれる人間がいることは、覚えておこうと思った。
何もしないで終わる方が、無理だった。
でも、何かをするために、壊れていいわけでもないらしい。
その加減は、まだ分からない。
少しずつ、本当に少しずつ。
朝比奈恒一は、変わり始めていた。
ただし、無茶のやめ方だけは、まだ覚えていなかった。




