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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
すれ違い編

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第8話 手渡しのラブレター

 グラウンド


 放課後、グラウンドの端。


 夕方の風が、少しだけ土の匂いを運んでいた。陸上部の練習は、もう少しで始まる時間だった。


 部員たちが少しずつ集まり始めている。

 その中で、俺はひとり立っていた。


 ポケットの中には、封筒がある。昨夜、何度も書き直して、ようやく残した一通。


 ラブレター。


 たぶん、そう呼ぶもの。

 ただし、中身はかなり短い。


 いや、短いというより。

 一文しかない。


(……やるしかない)


 ここで迷ったら、昨日の自分に申し訳ない。何枚も便箋を無駄にした自分自身に。


 そして、真田巴に名前を覚えてもらいたいと思った自分に。


 俺はグラウンドの向こうを見る。


 真田巴は、女子部員と何かを話していた。


 姿勢がいい。


 声は聞こえないが、立っているだけで空気が少し締まる。やっぱり、すごい人だと思う。


 俺は息を吸った。

 それから、歩き出した。


「真田」


 声をかける。


 巴が振り向いた。

 まっすぐな目が、俺を見る。


「……あれ?」


 一瞬だけ、考える顔。


「この前の」


 名前は、まだ出てこなかった。


(やっぱりか)


 胸の奥が少しだけ重くなる。

 でも、それは想定していた。


 だから今日、ここに来た。


「朝比奈です」


 俺は先に名乗った。


「朝比奈恒一」


「……ああ」


 巴は小さく頷く。


「朝比奈」


 まだ少し確認するような呼び方だった。


 でも、呼ばれた。

 それだけで、少しだけ背筋が伸びる。


「これ」


 俺はポケットから封筒を取り出して、差し出した。


 巴は少し目を細める。


「なに?」


「読んでほしい」


「今?」


「できれば」


「……」


 巴は不思議そうな顔をした。


 当然だと思う。


 放課後のグラウンドで、いきなり封筒を渡されている。しかも相手は、まだ名前を覚えきれていない男子。


 普通なら困るだろう。

 それでも、巴は封筒を受け取った。


 乱暴には扱わなかった。

 指先で丁寧に封を開ける。


 中の便箋を取り出す。

 視線が落ちる。


 数秒の沈黙。


 風が吹いた。


 グラウンドの端で、誰かの笑い声がする。


 俺は、なぜか息を止めていた。


 巴が顔を上げる。


「……え?」


 その反応は、かなり素直だった。


「これだけ?」


「うん」


 便箋には、一文だけ書いてある。


 ――朝比奈恒一です。


 それだけ。

 巴はもう一度、便箋に視線を落とした。


「……なにこれ」


「名前を覚えてほしくて」


「名前」


「ああ」


「そのために、手紙?」


「そう」


 巴は黙った。


 たぶん、理解しようとしている。

 でも、すぐには理解できなさそうだった。


 俺も、逆の立場なら少し困ると思う。

 だが、これしか思いつかなかった。


「普通、もっと書くでしょ」


「書こうとは思った」


「思っただけ?」


「書いた」


「じゃあ、なんでこれだけ?」


「違うと思った」


「違う?」


 巴の目が、まっすぐこちらを見る。

 ごまかせる感じではなかった。


 だから、俺も正直に答える。


「好きだとか、すごいと思ったとか、いろいろ書こうとした」


「……」


「でも、その前に」


 俺は少しだけ息を吸う。


「まず、名前を覚えてもらわないと意味がないと思った」


 巴は、しばらく何も言わなかった。


 それから、便箋を見て、小さく読み上げる。


「朝比奈」


「恒一」


 本当に少しだけ、何かが変わった気がした。


 ただ名前を読まれただけ。


 それだけなのに。


 俺の中では、大きかった。


(……呼ばれた)


 初めて、ちゃんと。


 朝比奈恒一として。


 巴は顔を上げる。


 今度は、さっきより迷いが少ない。


「そういうことか」


「そういうことだ」


「……変なやつだね」


「よく言われる」


「よく言われるんだ」


「たぶん」


 巴は、少しだけ笑った。


 小さな笑みだった。

 でも、さっきよりずっと柔らかい。


「でも」


 巴は便箋を軽く持ち上げる。


「ちゃんと来たんだ」


「ああ」


「コソコソ探ったりしないで」


「ああ」


「正面から」


「その方がいいと思った」


「うん」


 巴は短く頷いた。


「それは、悪くない」


 その言葉が、思ったより嬉しかった。


 悪くない。

 たぶん、これはかなり良い評価だ。


 少なくとも、嫌われてはいない。


「だけど」


「なんだ」


「ラブレターとしては、かなり変」


「そうなのか」


「そうだよ」


 巴は少し呆れたように言う。


「普通、名前だけ書いて渡さない」


「でも、名前を覚えてほしかった」


「それは分かった」


「なら、目的は達成した」


「早いな」


「そうか?」


「早いよ」


 巴はまた少し笑った。

 そして、便箋を丁寧に折り直す。


 封筒に戻して、ポケットにしまった。

 その仕草を見て、胸の奥が少し熱くなる。


 捨てられなかった。

 返されもしなかった。


 しまってくれた。


「受け取っておく」


「いいのか」


「渡されたし」


「ありがとう」


「こっちが言うことじゃない?」


「名前を呼んでくれたから」


 巴は少しだけ驚いた顔をした。


 それから、ほんの少し困ったように笑う。


「そりゃ読むでしょ」


「それでも」


「……変なやつ」


 また言われた。


 でも、さっきより嫌な感じはしなかった。


 巴はグラウンドの方へ視線を向ける。


 部員たちが準備を始めていた。

 そろそろ練習が始まるのだろう。


「朝比奈」


 もう一度、呼ばれた。


 今度は自然だった。


 確認ではなく。


 ちゃんと呼びかける声だった。


「はい」


「またグラウンド来なよ」


「いいのか」


「来たいんでしょ」


「行きたい」


「じゃあ、来ればいい」


 巴はそう言って、少しだけ肩をすくめた。


「ただし、邪魔はしないこと」


「分かった」


「あと、無茶もしないこと」


「……分かった」


「今、少し間があった」


「気のせいだ」


「気のせいじゃない」


 巴は目を細める。


 俺は少しだけ視線を逸らした。


 無茶をしない。

 それは少し難しい。


 でも、今は頷いておく。


「努力する」


「そこは断言しなよ」


「……無茶はしないようにする」


「弱い」


「難しいな」


 巴は、呆れたように笑った。

 その笑顔を見て、俺は思った。


 ほんの少しだけ。

 前に進んだ。


 名前を呼ばれた。

 手紙を受け取ってもらえた。


 また来てもいいと言われた。

 それだけで、十分だった。


 いや、十分すぎた。


「じゃあ、練習行くから」


「ああ」


「朝比奈」


「なんだ」


「次は、もう少し手紙らしい手紙にしなよ」


「分かった」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんじゃない」


 巴はそう言って、グラウンドへ戻っていった。


 俺はその背中を見送る。


 ポケットの中は、もう空だった。でも、胸の中には、さっき呼ばれた名前が残っている。


 朝比奈恒一。


 たったそれだけの一文。


 それでも。


 その日、俺の名前はようやく、真田巴の中に少しだけ刻まれた。


 その日、俺の名前はようやく、真田巴の中に少しだけ刻まれた。

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