名前を刻むための一歩
放課後の教室。
俺は机に突っ伏していた。
「……どうする」
小さくつぶやく。
授業はもう終わっている。
教室には、まだ何人か残っていた。
部活へ向かうやつ。
友達と話しているやつ。
何となく帰る準備をしているやつ。
その中で、俺だけが机に額をつけて、かなり深刻に悩んでいた。
(まだ、ちゃんと覚えられてない)
真田巴。
強くて、綺麗で、まっすぐな人。
俺は一度、名前を言った。
朝比奈恒一です、と。
でも、たぶんまだ足りない。
認識はされた。
たぶん、顔も見られた。
けれど。
(記憶に残ってるかは、別だよな)
ただの同学年の男子。
何か言ってきたやつ。
それくらいで終わったら、意味がない。
俺は、あの人に名前を覚えてもらいたい。
ただ見てもらうだけじゃない。
ちゃんと、朝比奈恒一として。
「なあ」
顔を上げる。
近くにいた基樹と彩音が、こっちを見た。
「どうした、恒一」
基樹が少し嫌そうな顔をする。
まだ何も言っていないのに、その顔は失礼ではないだろうか。
「ラブレターって、どう思う?」
教室の空気が止まった気がした。
基樹は俺を見たまま固まり、彩音は瞬きをした。
「古っ」
基樹が即答した。
「即答かよ」
「いや、古いだろ」
「でもさ」
俺は身を乗り出す。
「ちゃんと名前を覚えてもらうには、こういうのもありじゃないか?」
「……名前を覚えてもらうためのラブレター?」
「ああ」
「目的が変だろ」
「変か?」
「変だよ」
基樹は腕を組んだ。
かなり真剣に考えている顔になった。
真剣に考える必要がある内容だと思ってくれたのは、少しありがたい。
「まあ、今どきあんまり見ないけどな」
「だよな」
「でも」
「でも?」
「お前、こういうことだけは勇気あるよな」
言い方が微妙すぎる。
「それ、褒めてる?」
「半分な」
「半分かよ」
「残り半分は心配してる」
「なぜ」
「お前だから」
便利な言葉みたいに言われた。
俺は少し納得できなかったが、彩音がくすっと笑ったので、ひとまず流した。
「でも、悪くないかも」
彩音が言った。
「え?」
思わずそっちを見る。
彩音は少し考えながら、机に頬杖をつく。
「巴ってさ」
「ああ」
「正々堂々してるの、好きだと思うよ」
その一言で、頭の中のものが繋がった。
陰で探るのは違う。
遠くから見ているだけでも違う。
でも、真正面から行くのは。
たぶん、悪くない。
少なくとも、卑怯ではない。
(そうか)
真正面から。
自分の名前で。
自分の言葉で。
「じゃあ――」
俺は、ゆっくり言った。
「やる」
基樹が深くため息をつく。
「マジでやるのか」
「やる」
「ほんとブレねえな、お前」
「ブレたら駄目だろ」
「いや、そういう話じゃなくて」
基樹は呆れていた。
けれど、少しだけ笑ってもいた。
彩音は、いつもより少し優しい顔で言う。
「ちゃんと自分の言葉で書きなよ」
「……うん」
「変に格好つけると、たぶん恒一は事故るから」
「事故る?」
「文章で」
「文章で事故るのか」
「うん。けっこう大きめに」
基樹が横で頷いた。
「分かる」
「分かるな」
「分かるだろ」
二人の意見が一致している。
少し不本意だった。
でも、たぶん間違ってはいない。
「自分の言葉で書く」
俺はそう言った。
彩音は頷く。
「それが一番いいと思う」
■自室
その日の夜。
机の前。
白い便箋。
ペン。
そして、俺。
準備はできていた。
なのに、手が止まっていた。
「……どう書くんだよ、これ」
口に出しても、答えは出ない。
今まで、何度も好きだと言ってきた。
勢いだけなら、たぶんあった。
でも、文字にするとなると、まったく違う。
言葉が残る。
形になる。
相手の手元に渡る。
そう考えると、急に難しくなった。
(何を書けばいい)
好きです。
いきなりそれは重いかもしれない。
いや、ラブレターなのだから、それでいいのか。
でも、まずは名前を覚えてもらいたい。
いや、名前を覚えてもらうためのラブレターというのも、やはり変なのかもしれない。
「……」
書いてみる。
違う。
消す。
また書く。
違う。
破る。
気づけば、机の上には丸めた紙がいくつも転がっていた。
「……違うな」
深く息を吸う。
彩音の言葉を思い出す。
ちゃんと自分の言葉で書きなよ。
(カッコつけるな)
(正直に書け)
もう一度、ペンを持つ。
便箋に向かう。
手が少し震えている。
でも、止めない。
一文字ずつ、ゆっくり書いた。
――真田さんへ
それだけで、心臓が少し強く鳴った。
真田さん。
名前を書く。
相手の名前を書くというのは、思っていたより重い。
次に、自分の名前を書く。
ここが大事だ。
ここで逃げたら意味がない。
俺は、もう一度息を吸って、ペンを動かした。
――朝比奈恒一です。
その文字を見た瞬間。
少しだけ、胸の奥が熱くなった。
(まずは)
俺は便箋を見つめる。
(名前を、覚えてもらうところからだ)
そこから先は、何度も止まりながら書いた。
うまい文章ではなかった。
きれいな言葉でもない。
たぶん、格好よくもない。
でも、嘘は書かなかった。
真田さんを見て、すごいと思ったこと。
ちゃんと強い人だと思ったこと。
自分も、そういうふうにまっすぐになりたいと思ったこと。
名前を覚えてもらいたいこと。
書き終えた時には、夜はかなり遅くなっていた。
俺は便箋を読み返す。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
でも、破る気にはならなかった。
「……これでいく」
封筒に入れる。
表に名前を書く。
真田巴さんへ。
その下に、自分の名前。
朝比奈恒一。
少しだけ、手が止まる。
でも、ちゃんと書いた。
この一通で、何かが大きく変わるとは思わない。
それでも、何もしなければ、名前は残らない。だから、一歩だけ前に出る。
次の日。
この一通が、少しだけ二人の距離を動かすことになる。
ただしその時の俺は、ラブレターというものが、名前を覚えてもらうためだけに使われるものではないことを、まだ少し甘く見ていた。




