積み重ねと無茶 改稿
放課後。
チャイムが鳴ると同時に、俺は席を立った。
「今日も行くのか」
背後から声をかけられる。
基樹だった。
「ああ」
短く答えて、鞄を肩にかける。
「バイトだろ?」
「そう」
「で、そのあと走るんだろ」
「まあな」
基樹は、少しだけ眉をひそめた。
「最近、ずっとそれじゃね?」
「そうかもな」
「そうかもな、じゃなくてさ」
基樹は椅子にもたれ、俺を見上げる。
「学校終わって、バイト行って、そのあと走って、筋トレして。いつ休んでんだよ」
「寝てる」
「それは休んでるっていうより、気絶に近いやつだろ」
「違う」
「違わねえよ」
即答された。
何も言い返せなかった。
最近、自分でも少し分かっている。
体は重い。
朝、起きる時も少し遅くなった。
授業中、気を抜くと意識が落ちそうになることもある。
でも、やめるという選択肢はなかった。
「大丈夫だ」
俺はそう言った。
基樹は、すぐには返さなかった。
ただ、じっと俺を見る。
「……その“大丈夫”が一番信用できねえんだよな」
「そうか?」
「そうだよ」
基樹はため息をついた。
「お前、無理してる時ほど普通の顔するから」
「普通の顔はしてるだろ」
「してるから困るんだよ」
よく分からない理屈だった。
でも、基樹は本気で言っているらしい。
「とにかく、行く」
「ああ」
基樹は軽く手を振った。
「倒れるなよ」
「倒れない」
「倒れるやつは、だいたいそう言う」
「じゃあ、倒れないようにする」
「最初からそうしろ」
基樹の呆れた声を背中に受けながら、俺は教室を出た。
■バイト先 夜。
バイト先は、いつも通り忙しかった。
油の匂い。
洗剤の匂い。
食器の音。
注文の声。
その全部が、狭い店内に混ざっている。
「朝比奈くん、これお願い」
「はい」
返事をして、すぐに動く。
皿を運ぶ。
片付ける。
注文を確認する。
また運ぶ。
休む暇はほとんどない。
時計を見る余裕も、あまりない。
それでも、隙を見て壁の時計に目を向ける。
(……まだか)
終わりの時間までは、まだ少しある。
足が重い、肩も張っている。
それでも手は止めない。
金も必要だった。
時間も必要だった。
でも、どちらも足りない。
足りないなら、削るしかない。
何を。
休む時間を。
自分の甘さを。
そう考えると、単純だった。
バイトが終わった頃には、体の芯まで重くなっていた。
外に出ると、夜風が頬に当たる。
少し冷たい。
「……はぁ」
息を吐く。
このまま帰れば、楽だ。
風呂に入って、飯を食べて、寝る。
それがたぶん正しい。
(まだだ)
俺は公園へ向かった。
■夜の公園
公園には、人がほとんどいなかった。
街灯の下だけが、ぼんやり明るい。
俺は軽く屈伸をしてから、走り出した。
一周。
二周。
三周。
足が重い。
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
それでも、止まらない。
(足りない)
あの背中には届かない。
届かないなら、積むしかない。
速さも。
体力も。
筋力も。
何もかも、今の俺では足りない。
走り終えると、そのまま腕立てを始めた。
一回。
二回。
三回。
腕が震える。
腹筋。
スクワット。
体幹。
決めた分は、全部やる。
「……っ」
腕立ての途中で、肘が少し落ちた。
すぐに立て直す。
情けない。
この程度で震えている場合ではない。
(まだ弱い)
そう思った時だった。
「……やりすぎだろ、それ」
声がした。
振り向くと、基樹が立っていた。
「また来たのか」
俺が言うと、基樹は呆れた顔で近づいてきた。
「それ、こっちの台詞な」
「帰ったんじゃないのか」
「帰ったよ。一回な」
「なら、なぜここに」
「お前が本当にやってそうだったから見に来た」
「暇なのか」
「親友の生存確認だよ」
基樹はそう言って、ベンチの近くに立つ。
そして、俺の顔を見るなり眉をひそめた。
「ほら、やっぱり」
「何が」
「顔が完全に疲れてる」
「そうか?」
「そうだよ。自覚ないのが一番怖いんだよ、お前は」
基樹は深く息を吐いた。
「毎日バイトして、そのあとこれ?」
「ああ」
「頭おかしいだろ」
「知ってる」
「知っててやるなよ」
「必要だからな」
俺は腕立ての姿勢に戻る。
基樹は少しだけ声を低くした。
「身体、壊すぞ」
「壊さないようにやってる」
「嘘つけ」
即答だった。
「腕、震えてんじゃん」
「まだ動く」
「そういう問題じゃねえよ」
基樹の声は、いつもより真面目だった。
だから、俺も動きを止めた。
腕に力を入れたまま、地面を見つめる。
「そこまでしてさ」
基樹が言う。
「本当にやる意味あんのか?」
静かな問いだった。
少しだけ、夜の空気が重くなる。
でも、答えは決まっていた。
「ある」
即答した。
基樹は、しばらく黙った。
「……そっかよ」
それだけ言って、ベンチに腰を下ろす。
止めようとはしなかった。
でも、帰りもしなかった。
「何してるんだ」
「見てる」
「なぜ」
「お前が倒れたら、運ぶやつが必要だろ」
「倒れない」
「はいはい」
基樹は雑に返す。
俺はもう一度腕立てを始めた。
十回。
二十回。
三十回。
腕がきつい。
呼吸が荒れる。
でも、基樹は何も言わなかった。
ただ、ずっと見ていた。
その視線が、少しだけ鬱陶しい。
けれど、少しだけありがたかった。
「恒一」
「なんだ」
「お前さ」
「ああ」
「昔から、そういうとこあるよな」
「そういうとこ?」
「一回決めたら、止まらないとこ」
基樹は苦笑した。
「周りが何言っても、自分で必要だと思ったらやる」
「悪いか」
「悪い時もある」
「そうか」
「でも」
基樹は少しだけ間を置く。
「そういうとこで、変わってきたのも知ってる」
俺は腕を止めた。
基樹を見る。
基樹は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「だから、止めねえよ」
「……そうか」
「ただ、無理はすんな」
「分かってる」
「分かってない顔で言うな」
「顔で分かるのか」
「分かる」
基樹は立ち上がった。
「今日はもう帰れ」
「まだ残ってる」
「残りは明日やれ」
「明日もある」
「じゃあ、明日の自分に謝れ」
「どういう意味だ」
「知らん。今考えた」
少しだけ笑ってしまった。
基樹も、少しだけ笑った。
体は重い。
腕も足も痛い。
まだ足りない。
それは変わらない。
でも、少しだけ胸が軽くなった。
「……あと一セットだけ」
「半セット」
「一セット」
「じゃあ、フォーム崩れたら終わり」
「分かった」
「本当に分かったか?」
「たぶん」
「そこは断言しろ」
基樹が呆れる。
俺は最後の一セットを始めた。
腕は震えていた。
呼吸も荒い。
でも、フォームだけは崩さないように意識する。
基樹が横で見ている。
余計なことは言わない。
ただ、崩れたら止めるつもりでいる。
(まだ、届かない)
あの背中には、まだ届かない。
でも、少しずつ。
本当に少しずつ。
積み重ねていくしかない。
最後の一回を終えると、俺は地面に手をついたまま息を吐いた。
「終わり」
基樹が言う。
「ああ」
「帰るぞ」
「分かった」
立ち上がると、足が少しふらついた。
基樹がすぐに肩を支える。
「ほら見ろ」
「少しだ」
「少しじゃねえよ」
基樹は呆れながらも、手を離さなかった。
夜の公園を出る。
街灯の下を、二人で歩く。
「恒一」
「なんだ」
「お前、ほんと変わんねえな」
「そうか」
「でも、少しずつ変わってる」
基樹は前を向いたまま言った。
「どっちだ」
「どっちも」
「難しいな」
「お前ほどじゃない」
基樹が笑う。
俺も、少しだけ笑った。
無茶をしている自覚はある。
でも、やめるつもりはない。
ただ、倒れたら、少し困る人間がいるらしい。
それだけは、覚えておこうと思った。
少しずつ。
本当に少しずつ。
朝比奈恒一は、変わり始めていた。
ただし、無茶のやめ方だけは、まだ覚えていなかった。




