第88話 なんかこの人は苦手かもしれない話
■二年A組前・廊下
放課後。
前田千夜は、二年A組前の廊下を歩いていた。
別に用があるわけではない。
……たぶん。
「……」
少しだけ、教室の中へ視線を向ける。
三浦基樹が何かを言っている。
朝比奈恒一は、いつものよく分からない顔をしていた。
「だからその距離感がおかしいって!」
「ちゃんとしてるだろ」
「してねえんだよ!」
いつものやつだった。
「……」
千夜は、小さく息を吐く。
そのまま通り過ぎようとした。
その時。
「前田さんだっけ?」
声をかけられた。
「……?」
振り向く。
そこにいたのは、一ノ瀬彩音だった。
肩まで伸びた黒髪。
柔らかく整った顔立ち。
笑うだけで、空気が少し軽くなる。
派手ではない。
けれど、自然と視線が向く。
そういうタイプの女子だった。
「……どうも」
千夜は軽く返した。
「巴の友達なんでしょ?」
「まあ」
「やっぱり」
彩音は楽しそうに笑った。
「最近、よくA組の近くにいるよね」
「……」
千夜は、一瞬だけ黙る。
(……なんで知ってる)
そう思った。
でも、顔には出さない。
「少し気になっただけ」
「へえ」
彩音は、どこか面白そうにうなずいた。
「恒一のこと?」
「……まあ」
否定はしなかった。
否定するほどでもない。
実際、気になっているのはそこだった。
「昔からあんな感じなの?」
千夜が聞く。
「うーん」
彩音は少し考える。
それから、あっさり言った。
「ちゃんとしてるよ」
「……」
また、その言葉だった。
巴も。
恒一も。
そして彩音も。
同じように、その言葉を使う。
「……ちゃんとしてる」
「うん」
彩音は笑ったままうなずく。
「恒一は、基本的にはちゃんとしてる」
「基本的には?」
「うん」
彩音は、教室の中を見る。
基樹に何かを言われて、恒一が本気で首をかしげている。
「でも」
彩音は軽い口調で続けた。
「ちゃんとしすぎると、失敗するんだよね」
「……」
妙に引っかかる言い方だった。
軽い。
軽いのに、見えている。
そんな感じがした。
「……分かってるんだ」
千夜がぽつりと言う。
「ん?」
「朝比奈のこと」
「まあ、幼馴染だしね」
彩音は、あっさり答えた。
その顔は穏やかだった。
優しい。
ちゃんと友達に見える。
でも。
「……」
千夜は、少しだけ違和感を覚えた。
この人は、空気を読む。
ただ読むだけではない。
少し、動かしている。
教室の中の空気。
基樹のツッコミ。
恒一のズレ。
そこに彩音が入ると、妙に軽くなる。
重くなりそうな話でも、少しだけ笑える形に変わる。
それはたぶん、悪いことではない。
でも、何も考えずにやっている感じでもなかった。
「……」
彩音は、そんな千夜を見て笑った。
「前田さんって、優しいね」
「……?」
「ちゃんと人を見てるから」
「……別に」
「ふふ」
彩音は、楽しそうに笑う。
その笑い方が、少しだけ苦手だった。
敵意があるわけではない。
嫌なことを言われているわけでもない。
むしろ、褒められている。
それなのに、少しだけ落ち着かない。
「巴のこと、心配してるんでしょ」
「……友達だから」
「うん」
彩音は、素直にうなずいた。
「いい友達だね」
「……」
千夜は答えなかった。
彩音はもう一度、教室の方を見る。
恒一と基樹は、まだ何か言い合っている。
「恒一は悪気ないよ」
「それは、見れば分かる」
「でしょ」
「でも、分かりにくい」
「うん」
彩音は、すぐに認めた。
「そこが困るところなんだよね」
「……」
「悪気がないから、余計にややこしい」
その言い方は、軽い。
けれど、内容は合っていた。
千夜は、少しだけ目を細める。
「……分かってて、見てるんだ」
「ん?」
「色々」
「……」
彩音は、少しだけ黙った。
それから、にこっと笑う。
「見えるものは、見えるから」
「……」
やっぱり苦手かもしれない。
千夜は、そう思った。
この人は、たぶん分かっている。
恒一のことも。
基樹のことも。
巴のことも。
そして、自分が何を気にしてここに来ているのかも。
全部ではないにしても、かなりの部分を見ている。
その上で、笑っている。
「……巴のこと」
彩音が言った。
「よろしくね」
「……」
「前田さんが見ててくれるなら、少し安心かも」
「……別に、頼まれることじゃない」
「うん。そうだね」
彩音は軽く笑って、手を振った。
「じゃあね」
そのまま、教室へ戻っていく。
「……」
千夜は、その背中を見た。
彩音は自然に教室へ入り、自然に会話へ混ざる。
そこにいるのが当たり前みたいに、空気へ溶け込んでいく。
「……」
(……なんか)
千夜は小さく思う。
(……この人は苦手かもしれない)
理由は、まだはっきりしない。
ただ、たぶん。
この人は、色々分かった上で笑っている。
そして千夜は、そういう人間があまり得意ではなかった。




