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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
すれ違い編

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第75話 いいことって、なに?

■白石家・ひよりの部屋


 朝。


 ひよりは、ゆっくりと起き上がった。


「……」


 昨日までより、少しだけ身体が軽い。


 まだ完全に元気というほどではない。


 けれど、熱はだいぶ下がっている。


「……よかった」


 小さくつぶやく。


 ベッドから降りて、制服に袖を通す。


 机の上には、書きかけのメモが残っていた。


『こういちさんへ』


 その文字を見て、ひよりは少しだけ顔を伏せる。


「……」


 まだ、書けていない。


 まだ、渡せていない。


 何も進んでいない。


 そう思った、その時。


「お姉ちゃん」


 ドアの隙間から、ひなたが顔を出した。


「……ひなた?」


「今日さ」


「うん?」


「いいことあるよ」


「……は?」


 ひよりは首をかしげる。


 ひなたは、にこっと笑った。


「行けばわかる」


「……なに、それ」


「楽しみにしてて」


 それだけ言って、ひなたは部屋を出ていく。


「……」


 ひよりは、しばらくドアの方を見ていた。


(いいこと……?)


 思い当たることはない。


 体調が戻ったこと。


 学校へ行けること。


 それくらいなら、確かにいいことかもしれない。


 けれど、ひなたの顔は、それだけではなかった。


 何かを知っている顔だった。


「……何したの」


 小さくつぶやく。


 けれど、答えは返ってこない。


■通学路


 家を出て、学校へ向かう。


 朝の通学路には、同じ制服の生徒が何人も歩いていた。


 ひよりは、少し遅めの足取りで歩く。


 体調は戻ってきた。


 けれど、まだ少しだけ身体が重い。


「……」


 その途中で。


 ふと、視線を感じた。


 前を歩いていた生徒が、ちらっとこちらを見る。


 すぐに顔をそらす。


 別の生徒も、ひよりを見てから、小声で何かを話している。


「……?」


 ひよりは首をかしげた。


(なに……?)


 昨日休んだからだろうか。


 体調を崩していたのが、そんなに目立つことだったのだろうか。


 そう思おうとした。


 けれど、違う。


 向けられている視線は、心配だけではなかった。


 驚き。


 好奇心。


 どこか、面白がるような空気。


「……」


 ひよりは、少しだけ歩く速度を落とす。


 すると、近くの生徒の声が耳に入った。


「昨日の子じゃない?」


「え、あの一年?」


「三年の佐々木先輩に……」


「しっ、聞こえるって」


「……」


 ひよりの足が、止まりかけた。


(三年?)


(佐々木先輩?)


 何の話か分からない。


 分からないのに、自分に関係があるような言い方だった。


 胸の奥が、少しだけざわつく。


(……いいことって)


 今朝のひなたの顔が浮かぶ。


『今日さ』


『いいことあるよ』


『行けばわかる』


「……」


 ひよりは、小さく息を吸った。


 分からない。


 でも、何かが起きている。


 それだけは、学校に着く前から分かってしまった。


■蒼ヶ崎高校・一年教室


 教室に入った瞬間。


「……あ」


 空気が、止まった。


 視線が一斉に集まる。


 いつもなら、休み明けの心配くらいで済むはずだった。


 けれど、今日の視線はそれだけではない。


 驚き。


 興味。


 少しの興奮。


 そして、何かを知っているような空気。


「ひより!」


 クラスメイトが駆け寄ってくる。


「大丈夫!?」


「体調は?」


「昨日休んでたんだよね?」


「もう平気なの?」


「……うん」


 ひよりは戸惑いながらうなずいた。


「だいぶ、よくなったけど」


「でもさ」


「昨日のやつ、すごかったね!」


「……え?」


 ひよりが固まる。


「え、覚えてないの?」


「覚えてないっていうか……」


「三年生に告白したやつ!」


「……は?」


 言葉が出なかった。


 告白。


 三年生。


 昨日。


 どれも、自分の中に心当たりがない。


「グラウンドでさ」


「“こういちさん、好きです!”って」


「……」


 頭が止まる。


 こういちさん。


 その言葉だけが、胸の奥に刺さった。


「しかもさ」


「返事、待ってもらってるって」


「佐々木先輩だよね?」


「三年の陸上部の」


「すごいよね」


 笑いながら話す声が、少しずつ遠くなる。


(なに、それ)


(なに言ってるの)


 理解が追いつかない。


 自分は昨日、寝込んでいた。


 学校には来ていない。


 グラウンドにも行っていない。


 誰にも告白していない。


 それなのに。


 みんなは、自分がやったことのように話している。


「……ごめん」


 ひよりは小さく言って、席を立った。


「ひより?」


「ちょっと……」


 それ以上言えずに、教室を出る。


■廊下


 廊下に出ると、少しだけ空気が冷たく感じた。


 ひよりは壁際で立ち止まる。


 呼吸が、少し浅い。


(なにが……)


(どうなってるの)


 昨日。


 自分は寝ていた。


 ひなたが部屋に来た。


 今朝、ひなたが言った。


『今日さ、いいことあるよ』


『行けばわかる』


「……」


 胸の奥が、嫌な形でざわつく。


 その時。


「ひより!」


 声に振り向く。


 仲のいいクラスメイトが追いかけてきていた。


「ちょっといい?」


「……うん」


 ひよりは、かすかにうなずいた。


■階段


 人の少ない階段の踊り場。


 クラスメイトは、少し声を落とした。


「昨日のさ」


「……うん」


「あれ、妹のひなたちゃんでしょ」


「……」


 ひよりは止まった。


 答えられなかった。


 けれど、その沈黙だけで、相手には十分だったらしい。


「やっぱり」


「……なんで」


「昨日、ひより休んでたし」


「……」


「それに、昔から似てるって言ってたじゃん。ひなたちゃんと」


「……うん」


「昨日見た子、ひよりにすごく似てた。でも、なんか少し違ったって言ってる子もいて」


 ひよりの頭の中で、ゆっくりと線がつながっていく。


 昨日、自分は寝込んでいた。


 机の上には、書きかけのメモがあった。


 ひなたは、それを見ていた。


 今朝、ひなたは「いいことあるよ」と言った。


(……ひなた)


 胸が、ぎゅっと縮む。


「でさ」


 クラスメイトは、さらに言いにくそうに続けた。


「相手、三年の佐々木先輩なんだけど」


「……」


 ひよりは、さらに止まった。


(佐々木先輩……?)


 違う。


 完全に違う。


 自分が好きなのは、佐々木先輩ではない。


 こういちさん。


 でも、それは。


 佐々木光一ではなくて。


 朝比奈恒一で。


「……」


 一歩、後ろに下がる。


 視界が、少しだけ揺れた。


(違う)


(違うのに)


 でも、ひなたは知らない。


 ひなたが知っていたのは、きっと名前だけ。


 こういちさん。


 陸上部。


 好きな人。


 それだけだった。


(……だから)


 間違えた。


 佐々木先輩を呼んだ。


 みんなの前で告白した。


 自分の顔で。


 自分の制服で。


 自分の名前に近い姿で。


「……」


 何も言えない。


 クラスメイトは、心配そうにひよりを見る。


「ひより、大丈夫?」


「……大丈夫」


 反射のように答えた。


 けれど、全然大丈夫ではなかった。


「それ、佐々木先輩にも言った方がいいと思う」


「……うん」


「あと、朝比奈先輩にも」


「……」


 朝比奈。


 その名前が出た瞬間、ひよりの胸がまた痛んだ。


 知られたくない。


 でも、知られないと困る。


 違う人に告白したことになっている。


 しかも、自分がやったことになっている。


「……どうしよう」


 ようやく声が出た。


 小さく、震えていた。


 クラスメイトは困ったように眉を下げる。


「まず、ひなたちゃんに確認した方がいいんじゃない?」


「……うん」


 ひよりはうなずく。


 うなずくしかなかった。


 理解だけが、ゆっくりと追いついてくる。


 妹が、自分のために動いた。


 たぶん、悪気はない。


 むしろ、本気で助けようとした。


 でも。


(……最悪)


 小さく、心の中でつぶやく。


 いいことなんかでは、なかった。


 少なくとも、ひよりにとっては。

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