第71話 なんでもないはずなのに
■真田家・巴の部屋
夜。
巴は自室の机に向かっていた。
ペンを持っている。
ノートも開いている。
けれど、手は止まっていた。
「……」
一行も進まない。
目の前には白いページ。
頭の中には、放課後の校舎裏。
『俺のこと、どう思ってる?』
「……」
思い出した瞬間、巴は顔をしかめた。
「なんなの、あれ?」
ペンを置く。
椅子の背にもたれる。
けれど、落ち着かない。
結局、巴は立ち上がって、ベッドに倒れ込んだ。
「意味わかんないんだけど……」
顔を枕に押し付ける。
(なんで、あのタイミングで)
(なんで、あんな顔で)
思い出す。
真面目な顔。
迷いのない目。
いつものように、何も分かっていなさそうで。
なのに、妙にまっすぐで。
「……」
巴は寝返りを打った。
(普通って言ったし)
小さくうなずく。
(別に、何も変わってないし)
そう言い聞かせる。
普通。
普通は普通。
それ以上でも、それ以下でもない。
そういうことにした。
「……」
けれど、また寝返りを打つ。
天井を見る。
何もない。
何もないはずなのに、落ち着かない。
『普通ならよかった』
恒一の声が、また頭の中で再生される。
「……よかったって、何がよ」
小さくつぶやく。
その時。
「――何してんの?」
ドアの方から声がした。
「っ!?」
巴は跳ね起きた。
入り口に、前田千夜が立っていた。
「……ノックしろ」
「したけど?」
「してない」
「した」
静かな押し問答。
千夜は、遠慮のない顔で部屋を見回した。
「で?」
「何」
「何その状態」
「普通だけど」
「普通じゃない」
千夜は机を指さす。
「ノート真っ白」
「……」
「さっきからゴロゴロしてる」
「……してない」
「してた」
逃げ場がない。
巴は少しだけ顔を背ける。
「……何しに来たの」
「普通に寄っただけ」
「普通に人の部屋に入ってくるな」
「真田家の人に上がっていいって言われたし」
「……」
言い返せない。
千夜はベッドの近くまで来て、巴の顔を覗き込んだ。
「何かあった?」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「別に?」
「“別に”の顔じゃない」
「……」
巴は黙る。
「……なんでもない」
「なんでもあるでしょ」
千夜はため息をついた。
「で? 誰?」
「は?」
「原因」
「……なんで人って決めつけてんの」
「今の反応で確定」
「……」
巴は言葉に詰まった。
千夜は逃がす気がない。
「で?」
「……」
「何言われたの」
「……」
巴はしばらく黙っていた。
けれど、千夜は待っている。
急かすでもなく。
ただ、そこにいる。
それが少しだけ腹立たしくて、少しだけ楽だった。
「……どう思ってるかって」
「誰に?」
「……あいつに」
「どいつ」
「……朝比奈」
一瞬で、千夜が固まった。
「……は?」
「いや、別に」
巴は早口になる。
「なんか急に聞かれて」
「なんで?」
「知らない」
「どういう流れで?」
「だから知らないって」
千夜は、少しだけ天を仰いだ。
「……朝比奈くん、急に踏み込んできたね」
「踏み込むっていうか、意味わかんないだけでしょ」
「まあ、意味は分からない」
「でしょ」
「でも、聞かれた方は大変だね」
「……」
巴は黙った。
それが答えだった。
「で、何て答えたの」
「普通って言った」
「……」
千夜が巴を見る。
「普通?」
「普通は普通でしょ」
「いや、それ一番ダメなやつ」
「なんで!?」
巴が即座に反応した。
「相手、一番困るやつそれ」
「知らないし」
「考えろ」
冷静なツッコミ。
「だって、急に聞かれたんだから仕方ないでしょ」
「まあ、それはそう」
「でしょ」
「でも、普通って答えた後に悩んでるなら、普通じゃないでしょ」
「悩んでない」
「悩んでるでしょ」
「悩んでない」
「悩んでる」
「悩んでない」
「じゃあ何でノート真っ白なの」
「……」
巴は黙った。
千夜は、少しだけ笑った。
「まあいいけど」
「……なに」
「ちょっと面白い」
「面白くない」
「面白いよ」
断言する。
巴は顔を背けた。
「……めんどくさ」
小さくつぶやく。
千夜は、その横顔を少しだけ優しい目で見ていた。
巴は背が高くて、強くて、姿勢もいつも真っ直ぐだ。けれど、こういう時だけは、年相応に分かりやすい。
分かりやすいのに、本人だけが認めない。
「……で?」
千夜が聞く。
「どうすんの?」
「……知らない」
「次に会った時、普通にするの?」
「普通にする」
「できる?」
「できる」
「本当に?」
「できる」
巴は言い切った。
けれど、視線は少しだけ泳いでいた。
千夜はそれを見て、また小さく笑う。
「じゃあ、頑張って普通にして」
「言い方」
「普通なんでしょ?」
「……普通」
巴は、もう一度そう言った。
自分に言い聞かせるように。
千夜はそれ以上、深くは聞かなかった。
ただ、机の上の白いノートを見てから、巴を見る。
「とりあえず、今日は勉強無理そうだね」
「できる」
「できてない」
「これからやる」
「はいはい」
千夜は軽く受け流す。
巴はむっとした顔をする。
それでも、さっきよりは少しだけ落ち着いていた。
答えは出ない。
普通なのか。
普通じゃないのか。
自分でも、まだ分からない。
ただ。
なんでもないはずなのに。
なんでもない、とは言い切れなくなっていた。




