第65話 部室で二人きり
■部室棟・陸上部部室
放課後。
部室棟の一角。
陸上部の部室では、佐々木が一人で机に向かっていた。
机の上には、練習メニューの紙と、最近の記録表が広げられている。
誰をどの種目に回すか。
どのメニューを増やすか。
どこを無理させないか。
佐々木は、ペンを持ったまま、真面目な顔で数字を追っていた。
「……」
そこへ。
扉が開く。
「佐々木先輩」
「……朝比奈」
佐々木の肩が、はっきり揺れた。
手にしていたペンが、少しだけ紙の上でずれる。
恒一は、それに気づかない。
(……よし)
小さくうなずく。
(ちゃんと話そう)
昨日から、佐々木先輩は明らかに距離を取っている。
誠実で、責任感のある人だからこそ、真剣な気持ちを軽く扱えない。
そう考えると、納得できる部分はあった。
ただ、このまま何も聞かないのも、違う気がする。
「少しいいですか?」
「……ああ」
返事まで、数拍かかった。
佐々木は、部室の中を見た。
誰もいない。
窓は少し開いているが、外の声は遠い。
扉の向こうにも、今は人の気配がない。
完全に二人きりだった。
(……しまった)
佐々木は、そう思った。
油断があった。
昨日の手紙。
宛名のない手紙。
真剣な気持ち。
ぜひ読んでください。
そして今、朝比奈が部室に来た。
二人きりで。
話があると言って。
佐々木は、無意識に椅子を少し引いた。
「……ここで、か?」
「はい」
「……そうか」
もう、逃げる理由がない。
部長として、後輩の話を聞かないわけにはいかない。
佐々木は、ペンを置いた。
けれど、指先だけが全く落ち着かない。
「それで?」
「はい」
「話というのは」
声が、いつもより硬い。
恒一は、真面目な顔で口を開いた。
「手紙の件なんですけど」
「……」
佐々木の表情が、はっきり固まった。
目が一瞬だけ扉へ流れる。
逃げ道を確認するみたいに。
それから、すぐに姿勢を正す。
「……気持ちは受け取った」
「いや、それ俺じゃないです」
「……は?」
部室の空気が止まった。
「俺、届けただけなんで」
「……」
佐々木が固まる。
完全に固まる。
さっきまでの緊張とは、種類が変わった。
「届けただけ?」
「はい」
「……誰からだ」
「それは――」
恒一は、一瞬だけ考えた。
(……)
ひよりが大事そうに渡してきた手紙だった。
勝手に名前を出すのは違う気がする。
それに、真剣な気持ちなら、なおさら慎重に扱うべきだ。
「言わないほうがいいかなって」
「……?」
「大事そうな話だったんで」
「……」
「勝手に言うのも違うかなと」
「……」
佐々木は、ゆっくり目を閉じた。
長い沈黙。
部室の外から、誰かの走る足音が遠く聞こえる。
それが過ぎ去っても、佐々木はしばらく目を閉じていた。
「……待て」
「はい」
「お前からだと、思っていた」
「そうだったんですね」
恒一は即答した。
「……そうだったんですね、じゃない」
「でも、違うんで」
「それは今、分かった」
佐々木は額に手を当てる。
さっきまで怖がっていた分だけ、反動が大きい。
顔には、安堵と混乱と羞恥が全部混ざっていた。
「つまり俺は」
「はい」
「お前からの告白だと思って」
「はい」
「お前に返事を迫られると思って」
「はい」
「部室で二人きりになった瞬間、かなり身構えていたわけか」
「そうなりますね」
迷いなく同意する。
「……はあ……」
深いため息。
「完全に早とちりだな」
「そうですね」
「お前、もうちょっと否定しろ」
「いやでも、違うんで」
「そういう意味じゃない」
噛み合わない。
佐々木は、もう一度深く息を吐いた。
誤解は解けた。
はずだった。
「一つ聞く」
「はい」
「……お前は」
「はい」
「どういうつもりで、あれを渡した」
「どういう?」
恒一は少し考える。
(……)
「ちゃんとしたほうがいいと思ったんで」
「……?」
「大事そうだったし」
「……」
「あと、真剣な気持ちなら、ちゃんと受け取ってもらった方がいいかなって」
「……」
「佐々木先輩は、そういうの軽く扱わない人だと思ったので」
佐々木が、少しだけ止まる。
「……それは」
「はい」
「俺に対して言ってるのか」
「え?」
「いや、別に」
「一般論です」
「……本当か?」
一瞬、妙な空気になった。
恒一は首をかしげる。
「佐々木先輩って、誠実で責任感あるじゃないですか」
「……」
「真っ直ぐな気持ちを、ちゃんと考えてくれる人だと思ったんです」
「……」
「だから、そういう人ってすごいなって」
佐々木は何か言いかけて、やめた。
昨日の手紙。
真剣な気持ち。
宛名のない便箋。
そして今の、真っ直ぐな気持ちをちゃんと考えてくれる人、という言葉。
誤解は解けた。
はずなのに。
別の種類の誤解が、薄く残っている。
「……朝比奈」
「はい」
「お前、まさか」
「はい?」
「いや」
佐々木は、そこで言葉を止めた。
聞いてはいけない気がした。
確認したら、また何かが壊れる気がした。
「……そうか」
佐々木は、それ以上踏み込まなかった。
「とりあえず、昨日の件は分かった」
「はい」
「ただ、差出人が誰か分からない以上、俺も返しようがない」
「ですよね」
「そこは分かるのか」
「はい」
「……」
佐々木は、少し疲れた顔をした。
「朝比奈」
「はい」
「次からは、宛名のない手紙を渡す時は、最低限、誰宛か確認しろ」
「分かりました」
「それと、真剣な気持ちです、ぜひ読んでください、みたいな渡し方はやめろ」
「分かりました」
「本当に分かってるか?」
「たぶん」
「たぶんか」
佐々木は、もう一度ため息をついた。
それでも、恒一はまだ真面目な顔をしていた。
「でも、佐々木先輩に聞きに来てよかったです」
「……」
「やっぱり、ちゃんとしてる人だなって思いました」
「……もういい」
「え?」
「それ以上言うな」
「はい?」
恒一は不思議そうに首をかしげる。
「自分、そういう人好きなんですよね」
「……」
佐々木の動きが止まった。
「真剣な気持ちを軽く扱わない人とか」
「……」
「責任感があって、ちゃんと考えてくれる人とか」
「……」
「真田もそうですけど、そういうところは見習いたいなって思います」
「……真田も?」
「はい」
恒一は、何の疑いもなくうなずいた。
「佐々木先輩も真田も、そういうところがすごいです」
「……」
佐々木は、また額に手を当てた。
誤解は解けた。
確かに、昨日の手紙の誤解は解けた。
けれど。
これはこれで、別の疑惑が残った。
「……朝比奈」
「はい」
「お前は、言葉の選び方を少し考えろ」
「分かりました」
「絶対分かってないな」
「たぶん」
「たぶんか」
佐々木は、今日何度目か分からないため息をついた。
その場は、収まる。
少なくとも、表面上は。
■部室棟前
少し離れた場所。
部室棟の外で、基樹と彩音が立っていた。
「……遅くないか?」
基樹が言う。
「長引いてるね」
彩音が楽しそうに答える。
「二人きりだろ」
「二人きりだね」
「佐々木先輩、大丈夫か?」
「どっちの意味で?」
「全部の意味でだよ」
基樹は、疲れた顔をした。
そこへ、部室の扉が開く。
まず恒一が出てくる。
その後ろから、佐々木が出てきた。
佐々木の顔には、疲労がにじんでいる。
大きな問題を一つ処理したような顔。
けれど、完全に解決した顔ではない。
「……解決したのか、あれ」
「表面上はね」
「一番信用できないやつだな」
「うん」
彩音は楽しそうにうなずいた。
「佐々木先輩、なんか余計に疲れてないか?」
「疲れてるね」
「何があったんだよ」
「さあ?」
彩音は、くすっと笑う。
「たぶん、誤解は一つ解けたんじゃない?」
「じゃあなんであの顔なんだよ」
「疑惑が一つ残ったからじゃない?」
「最悪じゃねえか」
基樹は頭を抱えた。
少し離れた場所。
巴も、部室棟の前を見ていた。
会話そのものは聞こえていない。
けれど、出てきた二人の空気くらいは分かる。
佐々木が、妙に疲れている。
朝比奈は、妙に満足している。
だいたい、それだけで状況は察せた。
(……また何か、あったんだな)
巴は、小さく息を吐いた。
一方の恒一。
(やっぱり部長は話せば分かるな)
満足している。
佐々木先輩の誤解は解けた。
次からは、宛名の確認もする。
真剣な気持ちの扱い方も、少し分かった。
ちゃんと聞きに行ってよかった。
恒一は、本気でそう思っていた。
問題は。
ほとんど解決していなかった。
そして。
消えたはずの疑惑は、形を変えて残っていた。




