第56話 呼び止められた理由
第56話 呼び止められた理由
■真田道場
夕方。
台所の片付けも終わり、俺は軽く頭を下げた。
「それじゃ、今日はありがとうございました」
真紀子さんと巴の祖母が、穏やかにうなずく。
「こちらこそ」
「またいらっしゃいね」
「はい」
自然に返事をしてから、少しだけ思う。
(……また来ること、もう決まってる感じだな)
まあ、悪くはない。
料理の話は楽しかった。
道場の稽古さえなければ、かなり平和だったかもしれない。
巴も、少しだけこちらに視線を向ける。
彼女のまっすぐな背筋は、ただそこに立っているだけなのに、道場の空気に一番馴染んで見えた。
「じゃあ、また」
「ああ」
そう言って、玄関へ向かう。
その時だった。
「……朝比奈」
背後から声がした。
低い声。
振り返る。
巴の父親が、腕を組んで立っていた。
「少し来い」
逃げ場はない。
(……来たか)
台所だけで終わるほど、真田家は甘くなかったらしい。
■道場
道場の奥。
俺は、巴の父親と向かい合っていた。
畳の匂い。
壁に掛けられた道具。
夕方の光が、道場の床に長く伸びている。
しばらく沈黙があった。
「料理は悪くない」
「……ありがとうございます」
「だが」
父親の目が、細くなる。
「それだけだ」
「……はい」
「今日はなぜここに来た」
まっすぐに問われる。
「料理をしに来たのか」
「……」
「稽古をしに来たのか」
「……」
「それとも、別の理由か、どっちだ」
答えが出ない。
真紀子さんに呼ばれたから。
巴に声をかけられたから。
料理の話をしたかったから。
道場にも通うつもりだったから。
理由は、いくつもある。
でも、どれも一つにまとまらない。
「理由が曖昧な者は続かん」
低い声が、道場に落ちる。
「……よく分かってないです」
正直に言った。
巴の父親の眉が、わずかに動く。
「でも」
俺は息を整える。
「また来ます」
次の瞬間。
ぐいっと肩を掴まれた。
「甘い」
引き寄せられる。
足が、畳から浮いた。
「……っ」
「その程度で来ると言うな」
さらに腕を取られる。
倒される。
そう思った時。
「――やめて」
巴の声がした。
すぐ横に、巴が入っていた。
長い手足が、こちらと父親の間にまっすぐ割り込む。
本人は止めに入っただけなのだろう。けれど、その大きな体が一歩踏み込むだけで、道場の空気が変わった。
「……何してるの?」
「指導だ」
「違う」
巴は短く言った。
父親を見る。
まっすぐに。
「やりすぎ」
「巴」
「今日」
巴は、静かに言う。
「ママが無理に頼んで来てもらったんだよ」
空気が止まった。
「……」
父親の視線が揺れる。
「これじゃ」
巴が一歩詰める。
「もう朝比奈、来てくれなくなる」
その一言で、父親の顔が少しだけ変わった。
「ママ、どう思う?」
さらに追い打ち。
父親の顔が固まる。
ゆっくりと、振り返る。
そこに、真紀子さんが立っていた。
「――あなた」
すでに、立っていた。
静かに。
いつからいたのか分からない。
「何をなさっているのですか?」
声はやわらかい。
でも、逃げ場がない。
「……話をだな」
「お話、ですか」
真紀子さんが一歩近づく。
「朝比奈さん」
「はい」
「申し訳ありません」
丁寧に頭を下げられる。
「この方には、少し落ち着いていただきます」
「……いえ」
「わざわざ来ていただいたのです」
真紀子さんの声は、少しも荒れていない。
ただ、それだけに怖い。
「楽しく料理のお話をした後に、このようなことをされては困ります」
「……そうだったな」
巴の父親の肩が落ちる。
「あなた」
「はい!」
直立。
「こちらへ」
「……すまん」
腕を掴まれた父親が、そのままずるずると引きずられていく。
さっきまで俺を軽々と浮かせていた人が、何も抵抗できていない。
「……え?」
残された俺は、思わず声を漏らした。
息を整える。
横に、巴がいた。
「……大丈夫?」
「ああ。まあ、なんとか」
一瞬、間が空く。
「……ごめん」
巴が小さく言った。
「いや」
本当に、助かった。
そう思った。
「助かった」
素直に言う。
巴は、少しだけ視線を逸らした。
「なら、よかった」
短い返事。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
■真田道場・門前
道場の門の前。
ひよりが立っていた。
少しだけ開いた隙間から、中が見えてしまった。
倒されかける朝比奈先輩。
止めに入る真田さん。
近い距離。
真田さんの大きな背中が、朝比奈先輩を守るように間に入っていた。
「ママ」
その一言も、聞こえた。
(……)
ひよりは、静かに目を伏せる。
真田さんの家。
真田さんのお母さん。
真田さんのお父さん。
その中にいる朝比奈先輩。
(やっぱり)
小さく息を吐く。
自分が思っていたより、朝比奈先輩はあの場所に近い。
料理の話だから。
お母さんに呼ばれたから。
そう思えば、少しだけ落ち着けた。
でも。
今見えた距離は、それだけではなかった。
ひよりは、ゆっくりと背を向ける。
道場の中では。
まだ、空気が揺れていた。




