第50話 今日から俺、忠勝
■教室
翌日。
2年A組の教室。
俺は、静かに席に座っていた。
(……考えた)
昨日のことだ。
巴に言われた言葉。
弱そう。
普通。
戦う感じがしない。
何度思い返しても、なかなかの威力だった。
(いやまあ)
言っていることは分かる。
恒一。
たしかに、強そうな名前ではない。
優しそう。
普通そう。
平和そう。
そう言われれば、そうかもしれない。
それに比べて。
本多忠勝。
強い。
名前からして強い。
忠義の忠。
勝つ。
隙がない。
(でも、このままはよくない)
対策は必要だ。
名前が弱そうなら。
強い名前にすればいい。
(……完璧だな)
シンプル。
分かりやすい。
そして、たぶん強い。
俺は、ゆっくり立ち上がった。
「……なあ」
基樹に声をかける。
「ん?」
基樹が顔を上げた。
「今日から俺のこと…」
少し間を置く。
「忠勝って呼んでくれ」
「……は?」
基樹の顔が止まった。
「本多忠勝の?」
「そう!」
「なんで?」
「だって、強そうだろ」
「いやまあ、名前は強そうだけど」
「だから頼む」
頭を下げて、真剣に言う。
かなり真剣に。
基樹が、ものすごく嫌そうな顔をした。
「……なんで俺がお前を忠勝って呼ばなきゃいけないんだよ」
「必要なんだよ」
「何が?」
「説得力と名前の戦闘力」
「いらねえだろ、そんなの」
即断、即決だった。
「考えろよ」
「考えた結果いらねえって言ってる」
「早すぎるだろ」
「むしろ考えるまでもない」
基樹がため息をつく。
そこへ。
「なにしてんの?」
彩音が、後ろから覗き込んできた。
「ちょうどいい」
俺は振り向く。
「彩音も今日から俺のこと忠勝って――」
「無理」
早い。
「最後まで聞けよ」
「聞いた上で無理」
「まだ全部言ってないだろ」
「だいたい分かった」
彩音は、俺をじっと見た。
「だって恒一でしょ」
「それはそうだけど」
「そこ変える必要ある?」
「ある」
食い気味に答える。
「めちゃくちゃある」
「なんで」
「名前が弱そうだから」
教室の空気が、一瞬止まった。
基樹が目を閉じる。
彩音が、ゆっくり笑った。
「……誰に言われたの?」
「……」
「あー」
彩音が、にやっとする。
「巴でしょ」
「……」
沈黙で肯定してしまった。
「それで忠勝?」
「そう」
「方向性おかしくない?」
「合ってる」
「合ってないと思うけどなあ」
彩音が楽しそうに言う。
基樹が小声でつぶやいた。
「だめだ、これ」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言った」
ひどい。
「とにかく」
俺は二人を見る。
「今日から俺は忠勝でいく」
「いかない」
「無理」
二人同時だった。
厳しい。
■グラウンド
放課後。
グラウンド。
2年A組と2年B組。
それに他学年も混じる、いつもの練習前の時間。
アップをしながら、俺は周りを見渡した。
(……やるか)
教室では駄目だった。
なら、もっと広く周知するしかない。
大事なのは定着だ。
定着すれば、それはもう名前みたいなものだ。
俺は軽く息を吸った。
「なあ!」
近くにいた何人かが、こちらを見る。
基樹が嫌な顔をした。
彩音が少し楽しそうな顔をした。
巴は少し離れたところで、タオルを手にこちらを見ている。
「今日から俺のこと、忠勝って――」
「やだ」
「却下」
「なんで?」
「意味分からん」
「急にどうした」
数秒で否決された。
早い。
早すぎる。
「なんでだよ」
「なんででもだよ」
「朝比奈は朝比奈だろ」
「忠勝は無理」
「名前負けがすごい」
「それは言いすぎだろ」
笑いが起きる。
(……厳しいな)
思ったより、世間は冷たい。
そのとき。
「朝比奈」
声に振り向く。
2年B組の巴だった。
練習の合間に、こちらへ来ている。
さっきまでとは少し違う顔をしていた。
「なんで忠勝?」
「……強そうだから」
正直に答える。
巴の表情が、少しだけ変わった。
笑っていない。
「それ、軽く使うのやめて」
「……は?」
「簡単に名乗るものじゃないでしょ」
一歩、近づく。
「ちゃんとやってる人の名前なんだから」
「……」
言葉が出なかった。
周りの笑い声も、少しだけ遠くなる。
巴は、怒鳴っているわけではない。
強い口調でもない。
でも、はっきり怒っているのは分かった。
(……巴に怒られた)
軽い気持ちだった。
強そうだから。
名前だけでも借りれば、少しは強そうに見えるかもしれない。
そんな、かなり雑な考えだった。
でも、巴にとって本多忠勝は、そういう扱いをしていい軽い名前ではなかった。
巴は、それ以上責めるようなことは言わなかった。
ただ、短く言う。
「朝比奈は朝比奈でいい」
それだけ残して、離れていった。
俺は、しばらくその場に立っていた。
少し離れた場所。
「……今の見た?」
基樹が肩を震わせている。
「見た」
彩音が小さくうなずく。
「普通に怒られてたな」
「怒られてたね」
「自分から言い出して怒られるの、なかなかないぞ」
「恒一らしいけど」
基樹が、耐えきれずに吹き出した。
「ははっ……お前、自分からいってそれはないだろ」
「笑うな」
「いや、無理だろ」
確かに、笑われても仕方ない。
でも、今は少しだけ痛い。
体ではなく、別のところが。
■グラウンド脇
少し時間が経った。
練習の合間。
グラウンド脇に移動すると、1年のスペースからひよりが近づいてきた。
「朝比奈先輩」
少し遠慮がちに声をかけてくる。
手には、スポーツドリンク。
「これ、よかったら」
「ありがとう」
受け取る。
冷たい。
手のひらに、少しだけ気持ちいい。
ひよりが、こちらを見ている。
何か言いたそうな顔にも見えた。
俺は少し迷う。
(……言うか?)
今日から忠勝って呼んでくれ。
そう言いかけて。
やめた。
(いや、いい)
巴に言われたばかりだ。
軽く使うものじゃない。
それに、ひよりまで巻き込む話でもない。
「……いや、なんでもない」
ひよりは首をかしげた。
「はい」
それでも、やわらかく微笑む。
グラウンドに風が吹く。
俺はスポーツドリンクを飲みながら、空を見る。
(……まあ)
巴の言っていることは正しい。
名前だけ借りても、意味はない。
強そうな名前を名乗ったところで、強くなるわけじゃない。
むしろ、軽く見えるだけだ。
(軽く、か)
小さく息を吐く。
たしかに。
それは違う。
巴が好きなのは、強い名前ではない。
強い人だ。
折れない人。
ちゃんと積み重ねている人。
だったら。
(ちゃんとやるしかないな)
名前を変えるんじゃなくて。
朝比奈恒一のまま。
弱そうでも。
普通でも。
戦う感じがしなくても。
その名前のまま、強くなるしかない。
俺は、もう一度グラウンドを見る。
巴は、少し離れた場所で走る準備をしていた。
背筋が伸びていて。
目がまっすぐで。
やっぱり強そうだった。
(……よし)
ドリンクのキャップを閉める。
靴紐を確認する。
そして、軽く息を吸った。
(今日から俺、忠勝)
それは、なしになった。
でも。
(今日から俺、ちゃんと朝比奈でいいか)
そう思うと、不思議と少しだけ気が楽になった。
これで完全に整った。
……気がする。




