第45話 たぶん部長のこと
■二年A組教室
昼休みの教室。
なんとなく、落ち着かない。
(……なんだろうな)
理由は、はっきりしている。
白石ひより。
最近、やけに目に入る。
よく会うし。
話すし。
距離も、妙に近い。
(まあ)
(気のせいか)
そういうことにしている。
実際、俺には他に考えることが多い。
走ること。
道場のこと。
巴のこと。
真田家のこと。
そしてなぜか、料理のこと。
(……最後のは違うな)
自分で訂正する。
それでも、頭の中にひよりの顔がふっと浮かぶことが増えていた。
静かで。
押しつけがましくなくて。
でも、ちゃんと見ている目。
(いいやつなんだよな)
それは分かっている。
だから、余計に少し気になっているのかもしれない。
でも。
(まあ、俺には関係ないか)
そう思う。
ひよりには、たぶん気になる相手がいる。
前にそう考えた。
彩音の反応を見ても、たぶん外れていない。
なら、それでいい。
俺が変に考えることじゃない。
■一年教室前
その日の昼休み。
部活関係の用事で、一年の教室まで行くことになった。
別に大した用ではない。陸上部の連絡を、同じ一年の部員に伝えるだけだ。
教室の前まで来て、扉の近くで声をかけるタイミングを待つ。
中は、昼休みらしく少し騒がしかった。
弁当を食べているやつ。
机を寄せて話しているやつ。
廊下まで笑い声が漏れてくる。
その中に。
「ねえ、ひより」
女子の声が聞こえた。
名前に、少しだけ意識が向く。
見るつもりはなかった。
けれど、扉の隙間から、ひよりの姿が見えた。
友達らしい女子と、机のそばで話している。
ひよりは少し困ったように笑っていた。
「好きな人ってさ」
その言葉で、足が止まる。
(……え)
聞くつもりはなかった。
けれど、耳が勝手に拾ってしまった。
ここで声をかけて入るのも変だ。
かといって、今すぐ立ち去るのも不自然な気がする。
結果として。
俺は、扉の横で中途半端に固まった。
「誰なの?」
友達の声は、思ったよりストレートだった。
ひよりが、さらに困ったように笑う。
「えっと……」
声が小さい。
教室は騒がしい。
全部は聞こえない。
でも、断片だけは届いた。
「……こういち、さん」
思考が止まる。
(光一、さん?)
頭の中で、すぐに一人の顔が浮かんだ。
陸上部の部長。
佐々木光一。
(ああ)
妙に納得する。
(そりゃそうだよな)
速いし。
実績もあるし。
頼れるし。
部長としてもちゃんとしている。
ひよりみたいに周りをよく見ている子なら、そういうところに気づいてもおかしくない。
(……そっち行くよな)
自然な結論だった。
むしろ、今まで分からなかった方が鈍いのかもしれない。
そう思うと、それ以上聞く気はなくなった。
というか、聞いてはいけない気がした。
俺は少しだけ視線を外す。
廊下の壁を見る。
(まあ)
そんなもんだろ。
不思議と、ショックはなかった。
というより。
(最初から違うか)
自分の立ち位置。
冷静に考えれば、分かる。
ひよりがよく話しかけてくれるのは、俺が話しかけやすいから。
陸上部のことを少し聞きやすいから。
たぶん、それくらいだ。
ただ少しだけ。
(……そっか)
それだけが、胸の奥に残る。
教室の中では、会話がまだ続いている。
ひよりが何か言いかけて。
友達が少し笑って。
ひよりが慌てたように首を振る。
その仕草だけが、目に入った。
(……まあいいか)
聞かなかったことにする。
わざわざ踏み込む必要もない。
それに。
(こういうのは)
(察するのが大事だしな)
小さく息を吐く。
(俺、わりと敏感な方だと思うし)
変なところで納得する。
気づけた。
ちゃんと。
(……うん)
悪くない。
むしろ。
(気づけてる分、マシだな)
少しだけ、自分に感心する。
そこで、用事を思い出す。
(あ、連絡)
危ない。
完全に忘れるところだった。
俺は少し間を置いてから、教室の中に声をかけた。
「悪い。陸上部の連絡なんだけど」
近くにいた一年が、こちらに気づく。
目的の相手へ簡単に用件を伝える。
その間、ひよりはこちらを見た気がした。
けれど、俺はそちらを見なかった。
今見たら、変な顔をしそうだったからだ。
■廊下
用事を終えて、一年教室から離れる。
廊下は、昼休みのざわめきで満ちていた。
さっき聞こえた声だけが、妙にはっきり残っている。
(光一さん、か)
佐々木先輩。
部長。
ひよりが見ていた相手。
そう考えると、全部つながった気がした。
よくグラウンドを見ていたことも。
陸上部の様子を気にしていたことも。
俺に話しかけやすかったことも。
(なるほどな)
勝手に納得する。
そして、ふと。
(……俺には)
思い浮かぶ。
トラックの端。
夕方のグラウンド。
走っている姿。
剣道場で竹刀を構えていた姿。
弓道場で弓を引いていた姿。
好きなものを真っ直ぐ語る顔。
巴。
(……いるしな)
小さく、息を吐く。
なら、それでいい。
ひよりには、ひよりの恋がある。
俺には、俺の追いかけたい相手がいる。
(応援くらいは、するか)
勝手に、そう決める。
もちろん、本人に言うつもりはない。
そんなことを言われても、ひよりも困るだろう。
だから、何も聞かなかったことにする。
何も知らないふりをする。
(こういうのは、距離感が大事だしな)
また少しだけ、自分に感心する。
でも、その時の俺は、かなり真面目にそう考えていた。
窓の外を見る。
空は、いつも通りだった。
何も変わらない。
ただ。
(光一さん、か)
その名前だけが、静かに残った。
俺はその時、本気で分かったつもりでいた。
ひよりが見ていたのは、佐々木先輩で。
俺はそれをちゃんと察して。
余計なことは聞かず、距離を取る。
それが正しいと思っていた。
だから、まだ知らなかった。
この思い違いが。
後になって、妙なすれ違いの始まりになることを。
それも、自分ではかなり気を遣っているつもりだった分だけ、余計に面倒な形になることを。




