第4話 勘違いから走り出した話
放課後。
恒一は校舎屋上のベンチで死んでいた。
「うん、無理」
巴のあの一言が、頭の中でずっと繰り返されている。
「……いや、知ってたけどさ」
初対面で告白して、成功するわけがない。それくらいは恒一にも分かっていた。
分かってはいる。
けれど。
(即答は、さすがにきついだろ……)
空を見上げる。春の空はやたらと明るかった。こっちは失恋直後だというのに、まったく空気を読んでくれない。
「歴代でも、かなり上位の散り方だったな」
横で基樹が笑いながら言った。
「うるさい!」
「いや、お前が悪い。止めたのに、聞かないから」
「しかし、あれはすごい。迷いがなかった」
「やめろ」
「うん、無理」
「再現するな」
基樹はまだ笑っていた。
悪気はない。
多分。
「恒一、大丈夫?」
声がして振り向くと、一ノ瀬彩音が立っていた。
恒一の幼馴染で、昔から彼の失恋をそれなりの距離感で見てきた相手である。
「顔、完全に終わってるよ」
「終わってるよ、実際」
「だよね」
彩音は苦笑しながら、少し離れたところに座った。
「相手、巴でしょ」
「なんで知ってるんだよ」
「有名だから」
「有名すぎないか?」
「有名すぎるね」
否定しないのか。
彩音は少し考えるような顔をしてから言った。
「ちなみにさ」
「うん」
「巴って、柔道部の山下先輩をちょっと見てるらしいよ」
「……は?」
恒一の心臓が止まりかけた。
「山下先輩って、あの」
「うん」
基樹が頷く。
「でかい人」
「説明が雑」
「でも伝わるだろ」
伝わる。ものすごく伝わる。
山下先輩は三年生で柔道部。肩幅がやたら広く、校内でもかなり目立つ人だ。
「好きってことか?」
「そこまでは知らない」
彩音は肩をすくめた。
「ただ、体格とか動きとか、そういうのは気になるみたい」
「……」
恒一は自分の腕を見る。
細い。
絶望的に細い。
山下先輩と比べたら、同じ高校生とは思えない。
「……終わった」
「まだ始まってもないだろ」
基樹が言う。
「今終わった」
「早いな」
「山下先輩と比べられたら無理だろ」
「比べられてるとは言ってないよ」
彩音が言ったが、恒一の耳にはもう届いていなかった。
真田巴。強いものが好きそうな人。電車で男を制圧していた人。
あの迷いのない動きと、まっすぐな目。
そんな巴が気にしている相手。
(山下先輩……)
納得してしまう。
悔しいくらいに。
◇ ◇ ◇
その日の帰り道。
恒一は一人で歩いていた。夕焼けがやけに目に刺さる。
(筋肉、か……)
電車で見た巴の動き。
グラウンドで見た巴の走り。
そして、彩音の言葉。
『体格とか動きとか、そういうのは気になるみたい』
つまり、今の恒一には足りない。
何もかも。
「……やるしかないか」
誰に言うでもなく、恒一はつぶやいた。
◇ ◇ ◇
次の日から、恒一の生活は少し変わった。
朝は早く起きてランニング。腕立て、腹筋、スクワット。放課後にも公園で基礎トレーニングをするようになった。
「お前、急にどうした?」
基樹が呆れた顔で聞いてくる。
「鍛える」
「理由が短い」
「強くなる」
「さらに短くなった」
「山下先輩に勝てるくらい」
「方向性合ってるのか、それ」
基樹のツッコミは聞こえていたが、恒一が止まる理由にはならなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
放課後のグラウンドの端で、恒一はストレッチをしていた。最近はここで自主的に体を動かすのが日課になりつつある。
(少しはマシになってきたか……?)
腕立ての回数は増えた。走るのも、最初よりは少しだけ楽になった。
まあ、巴と比べたら誤差以下だろうけれど。
「よし、もう一本」
立ち上がった時だった。
「山下先輩、やっぱすごいね」
女子の声が聞こえ、恒一は思わず振り向いた。
グラウンドの向こうに、山下先輩がいた。
でかい。
とにかくでかい。
肩幅が明らかにおかしい。
「腰、もっと入れろ」
「はいっ!」
低く太い声にも圧がある。
完全に、強い人間の空気だった。
(……あれか)
恒一は自分の腕を見る。
やっぱり細い。
比べる前から負けている。
そして視線をずらした先に、巴がいた。
練習の合間なのか、水を飲みながら山下先輩の動きをじっと見ている。
(見てる……)
心臓が嫌な音を立てた。
巴が少しだけ笑った。
山下先輩の動きを見ながら、ほんの一瞬、楽しそうに。
(終わった)
恒一の中で、何かが確定した。
(あれが好きって顔だろ……)
誰もそんなことは言っていない。
それでも周囲の声が、やけに耳に入ってくる。
「巴様と山下先輩、並んだら強そう」
「最強じゃん」
「分かる」
(やめろ)
聞きたくない。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
恒一はいつもの公園にいた。
街灯の下を、一人で走る。
「はっ……はっ……」
息が上がり、足も重い。それでも止まらない。
頭の中には、昼間に見た光景が焼き付いていた。
山下先輩を見る巴の横顔。
楽しそうな目。
(ああなれなきゃ、駄目なんだろ)
強くて、大きくて、完成されている男。
恒一とは真逆の存在。
「……っ」
走り終えると、今度は腕立てを始める。
限界まで。
腕が震えても止めない。
「くそ……」
地面に汗が落ちる。
呼吸が乱れた。
足りない。
全然足りない。
やがて力尽きるようにベンチへ座り込むと、夜風が火照った体に冷たかった。それなのに、頭の中だけは熱いままだ。
「……なんでだよ」
ぽつりと言葉がこぼれた。
悔しい。
情けない。
でも。
(諦めたくない)
それだけは、はっきりしていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
グラウンドの端で走っていると、陸上部の女子たちの声が聞こえてきた。
「そういえば、あの人またいるね」
「あの人?」
「この前、巴に告白した人」
「ああ、朝比奈だっけ」
「そうそう。最近ずっと走ってるよ」
恒一の心臓が跳ねた。
思わず顔を上げると、少し離れた場所に巴がいた。
周囲の女子たちより頭一つ近く抜けているため、離れていてもすぐに分かる。
その巴が、こちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ目が合う。
巴は少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
ただ、それが恒一に向けられたものなのか。それとも山下先輩の時と同じ、強いものを見る目なのか。
その時の恒一には、まったく分からなかった。
分からないから、勝手に決めた。
(やっぱり、もっと強くならないと駄目だ)
真田巴は、山下先輩が好き。
あるいは、少なくとも強い男が好き。
その思い込みが、恒一の努力をさらに変な方向へ加速させることになった。




