第35話 知らなかった顔
剣道場前
放課後。
足は自然と、グラウンドではなく別の方へ向いていた。
(剣道場……)
校舎の奥。
普段はあまり来ない場所。
近づくほど、音が聞こえてくる。
――パンッ!!
乾いた衝撃音。
踏み込みの音。
掛け声。
グラウンドとはまるで違う音だった。
道場の前で、足が止まる。
(……本当にいるのか)
少しだけ迷う。
勝手に見に来たみたいで、変な感じがした。
でも。
(見てみたい)
そう思ってしまった。
入口の近くから、そっと中を見る。
木の床。
張り詰めた空気。
整列した部員たち。
竹刀を構える音。
その中に。
――いた。
巴だった。
防具を身につけている。
面。
胴。
小手。
普段の姿とは、まるで違う。
(……でかい)
改めて思う。
防具をつけていても、その体格は分かる。
むしろ、余計に際立って見えた。
背が高い。
手足が長い。
けれど、それだけじゃない。
構え。
背筋。
視線。
その場に立っているだけで、空気が締まる。
(……別人だろ、これ)
グラウンドで見る巴とは違う。
走っている時の、前へ抜けていくような明るさではない。
もっと静かで。
鋭い。
近づいたら、斬られるような空気だった。
「――始め!」
声が響く。
巴が動いた。
一歩。
踏み込み。
速い。
さっきまで自分が知っていると思っていた“速さ”とは違う。
走る速さじゃない。
届くための速さ。
相手との距離を、一瞬で消すための一歩。
「メンッ!!」
声が、道場に響いた。
竹刀が振り下ろされる。
――パンッ!!
鋭い音。
相手の動きが、一瞬で崩れる。
(……は?)
思考が追いつかない。
もう一度、構える。
間合いを測る。
相手が動く。
その瞬間、巴も動いた。
無駄がない。
速いだけじゃない。
大きいのに、重くない。
けれど、踏み込んだ瞬間の圧は重い。
(違う)
これは、グラウンドで見ていた巴とは別の顔だ。
でも。
別人ではない。
「一本!」
声が上がる。
巴が、ゆっくりと姿勢を戻した。
呼吸は乱れていない。
礼をして、少し下がる。
それだけの動作まで、きれいだった。
(なんだよ、これ)
知らなかった。
いや。
(知らなすぎた)
グラウンドで見ていたのは、ほんの一部だった。
走っている巴。
前を向いている巴。
短く言葉をくれる巴。
それだけでも、十分遠いと思っていた。
けれど、目の前にいる巴は、そのさらに奥を見せてくる。
面を外す。
汗に濡れた髪。
少しだけ乱れたポニーテール。
それでも、目はまっすぐだった。
さっきまで竹刀を振っていた時と同じ。
強くて、揺れない目。
(……同じか)
違うのに。
同じ。
それが、余計に現実味を帯びていた。
巴が、ふとこちらを見る。
一瞬だけ、目が合った。
驚いたような顔。
けれど、すぐにいつもの表情に戻る。
「……朝比奈?」
いつもの声だった。
そのギャップが、変に胸に残る。
「悪い」
思わず言う。
「ちょっと、見えたから」
言い訳みたいになった。
巴は少しだけ瞬きをして、それから小さく息を吐く。
「そっか」
怒っている感じではない。
けれど、少しだけ照れくさそうにも見えた。
「陸上は?」
「今日は自主練の前に、少し」
「ふうん」
巴は竹刀を持ち直す。
「見ても、面白くないと思うけど」
「いや」
すぐに否定した。
「すごかった」
言葉は、それしか出てこなかった。
巴が少しだけ目を細める。
「そう?」
「ああ」
グラウンドで見る時とは違う。
けれど、同じくらい。
いや、それ以上に。
知らなかった強さが、そこにあった。
「……邪魔にならないところで見てれば」
巴がそう言った。
「いいのか?」
「少しだけなら」
そう言って、巴はまた面をつける。
すぐに、いつもの声ではなくなる。
剣道場の空気に戻る。
構えた瞬間。
また、別の顔になる。
(……やべえな)
小さく息を吐く。
追いかけている相手が、どれだけ遠いか。
ようやく、少しだけ理解した気がした。
でも、不思議と嫌ではなかった。
遠い。
遠すぎる。
それでも。
(見てよかった)
知らないまま追いかけるより。
知って、それでも追いかける方がいい。
そう思った。
道場に、また竹刀の音が響く。
――パンッ!!
乾いた音が、胸の奥まで届いた。




