第34話 空いてる日の陸上
基樹の部屋
テストは、なんとかなった。
「ギリだな」
基樹が答案を見て言う。
「でも赤点ないなら勝ちでしょ」
彩音が笑った。
「勝ちなのか、これ」
「負けてないなら勝ち」
「採点が甘い」
「今の恒一にはこれくらいでいいの」
彩音が妙に先生みたいな顔で言う。
少しだけ反論しようとして、やめた。
実際、助けられたのは間違いない。
「……助かった」
正直に言う。
「それはもう、彩音先生のおかげだな」
基樹が軽く言った。
俺も答案を見ながら、素直に頷く。
「一ノ瀬先生、ありがとうございました」
「よろしい」
彩音が少し胸を張った。
その顔は、明らかに得意げだった。
「ちゃんと感謝するように」
「先生、威張ってる」
「威張ってません。正当な評価です」
「言い方が先生なんだよ」
基樹が笑う。
彩音はふふん、と少しだけ満足そうにしてから、ノートを閉じた。
「でも、先生役はここまで」
「終わりなのか」
「テスト終わったからね」
「次も頼むかもしれない」
「次はもっと早めに言って」
「はい」
「返事だけはいい」
最後まで先生っぽかった。
■グラウンド
数日ぶりの部活。
グラウンドに出る。
(久しぶりだな)
少しだけ体が軽い。
勉強ばかりで動いていなかった分、逆に走りたくなっていた。
準備運動をしながら、ふと視線を巡らせる。
(……あれ)
いない。
いつもなら、もう走っているはずの場所に。
巴の姿がない。
あの長い手足も。
すっと伸びた背筋も。
グラウンドの中にいると自然に目に入る、あの存在感も。今日は、見当たらなかった。
「なあ?」
近くの部員に声をかける。
「真田、今日いないのか?」
「ああ」
あっさり返ってきた。
「今日は剣道部」
「……は?」
思考が止まる。
「え、剣道?」
「うん」
「剣道部?」
「そう」
部員は、何でもないことみたいに頷いた。
「あと薙刀と弓道もやってるし」
「……え?」
「日替わりみたいな感じだな」
軽く言われる。
けれど、こっちは全然軽く受け取れない。
「今日は剣道」
「明日は薙刀だったかな」
「週に何回か弓道も行ってる」
「陸上は空いてる日や、たまに空いた時間に来る感じ」
さらっと説明される。
(……ちょっと待て)
頭が追いつかない。
空いてる日に来る感じ。
その言い方が、まずおかしい。
俺は今、陸上だけで精一杯だ。
走って、息が上がって、足が重くなって、それでもどうにかついていこうとしている。
それなのに。
巴は、その陸上を“空いてる日”にやっている。
(そんなことあるか?)
走って。
あのレベルで。
さらに、剣道。
薙刀。
弓道。
(しかも全部やってるってことだろ?)
目の前のグラウンドが、少しだけ遠く見えた。
「すげえよな、真田」
部員が何気なく言う。
「全部全国レベルだし」
「……え?」
思わず聞き返した。
「全部?」
「うん」
「剣道も?」
「剣道も」
「薙刀も?」
「薙刀も」
「弓道も?」
「弓道も」
「……陸上は?」
「陸上も普通にすごいだろ」
そう言われて、言葉が出なくなる。
普通にすごい。
その“普通”の場所が、俺とは違いすぎる。
「知らなかったのか?」
部員が不思議そうに見る。
「実家が剣道場、いや武道場だったかな。まあ、物心ついた頃からずっと武道の厳しい環境の中にいて、薙刀とか色々と出来るらしい。」
「まあ、有名だぞ」
「……マジかよ」
小さくつぶやく。
足元が、少しだけぐらつくような気がした。
自分が見ていた巴。
それは、ほんの一部だった。
グラウンドで走る巴。
無駄のないフォームで前に進む巴。
短く言葉をくれる巴。
俺が追いかけていたのは、その姿だけだった。
(全然、違うじゃん)
走りだけでも届いていない。
その上に、さらにある。
剣道。
薙刀。
弓道。
そして、勉強も落としていない。
(どんだけあるんだよ)
笑えてくる。
少しだけ、呆れるくらいに。
「よし、集合ー」
顧問の声が響いた。
現実に戻る。
列に並ぶ。
周りの部員たちが当たり前みたいに動いている中で、俺だけが少し遅れている気がした。
(……全然だな)
小さく思う。
巴は遠い。
そう思っていた。
けれど、その距離の測り方すら間違っていたのかもしれない。
走る距離だけじゃない。
タイムだけじゃない。
俺が知らない場所に、巴はまだいくつも立っている。
(追いつくとか)
少しだけ、息を吐く。
(どんだけ先にいるんだよ)
でも。
視線を前に戻す。
(だからやめるか?)
違う。
足に力を込める。
知らなかった。
まだ全然、知らなかった。
それだけだ。
だったら、知ればいい。
届かないなら、近づけばいい。
差があるなら、その差が見える場所まで行けばいい。
(追うだけだ)
それは、変わらない。
「……よし」
小さくつぶやく。
笛の音が鳴る。
前へ出る。
巴はいない。
それでも、今日は今日の練習がある。
俺はまた、走り出した。




