第33話 知らないまま追いかけていた
基樹の部屋
ノートに目を落とす。
けれど、頭の片隅には、さっき見た“巴御前”の文字がまだ残っていた。
(……いや)
首を振る。
今は勉強だ。
彩音に怒られる。
「恒一」
「はい」
「今、何考えてた?」
「勉強のこと」
「嘘が下手」
彩音が即答した。
基樹が横で笑う。
「完全に別のこと考えてた顔だったぞ」
「……ちょっとだけだ」
「ちょっとだけならいいと思ってるところが駄目」
彩音がペン先でノートをこつんと叩いた。
「はい、続き」
「はい」
もう一度、ノートを見る。
でも、すぐにペンが止まった。
「でもさ」
「また脱線?」
「いや、確認」
「それを脱線って言うんだよ」
彩音に言われる。
それでも、気になったものは仕方ない。
「あのさ、巴って、走るのがすごいだけだよな?」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
基樹が顔を上げる。
彩音も、呆れたような顔でこちらを見る。
「何言ってんの?」
「いや、だって」
俺は普通に答えた。
「陸上部だし」
二人が顔を見合わせる。
その反応で、少しだけ嫌な予感がした。
「……知らないのか?」
基樹が言う。
「何を」
「いやいやいや」
彩音が思わず笑った。
「ちょっと待って」
「何だよ」
「こんなに追いかけてるのに?」
「……何の話だよ」
本気で分からない。
二人が、同時にため息をついた。
「恒一さ」
彩音が言う。
「巴のこと、走ってるところしか見てないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「そうだけど、じゃないよ」
彩音がノートを閉じかけて、また開いた。
先生役を続けるか、こっちの話をするか迷ったみたいだった。
「巴は、走るのがすごいだけの人じゃないよ」
「……そうなのか?」
「そうなのかって」
基樹が呆れた声を出す。
「真田って、普通に有名だろ」
「陸上で?」
「それもあるけど」
基樹が少し考える。
「運動全般というか、立ち方というか、雰囲気というか」
「雑だな」
「説明しづらいんだよ」
彩音が横から続ける。
「簡単に言うと、巴はただ速いだけじゃないの」
「……どういう意味だよ」
「そのうち嫌でも分かると思う」
「そこで終わるのか」
「今、授業中なので」
「先生、逃げましたね」
「逃げてません」
彩音がすぐに言い返す。
「恒一が知らなすぎるだけ」
「ひどい」
「ひどくない。事実」
基樹が肩をすくめた。
「まあ、今のままでも十分やばいけどな」
「それは否定しない」
苦笑する。
走り。
体。
雰囲気。
近くで見れば見るほど、普通じゃないのは分かる。
でも、それだけだと思っていた。
巴は、走るのが速い。
陸上部で、部員として積み重ねてきた人。
俺が追いかけているのは、そこだと思っていた。
(それ以上って、なんだよ)
少しだけ、引っかかる。
知らないことがある。
それも、かなり大きなものが。
「……俺、そんなに知らないのか」
「知らないね」
彩音が即答した。
「即答かよ」
「だって知らないもん」
基樹も頷く。
「走ってる真田しか見てないって感じはする」
「……そうか」
言われてみれば、そうだった。
俺が見てきたのは、グラウンドの巴だ。
走っている巴。
前を向いている巴。
こちらを見て、短く言葉をくれる巴。
それだけで、十分すごいと思っていた。
けれど。
(それだけじゃないのか)
さっき見た、巴御前の説明が頭をよぎる。
戦場で戦った女性。
馬上で戦い、武勇に優れていた人。
そして、前に神様が言っていた言葉。
巴は、巴御前の生まれ変わりだ、と。
もちろん、それをここで口に出すわけにはいかない。
基樹にも、彩音にも聞こえないように、胸の奥だけで思う。
(俺、本当に何も知らないまま追いかけてたんだな)
少しだけ、変な感じがした。
恥ずかしいような。
でも、嫌ではないような。
知らないことがある。
それは、遠くなったというより。
まだ見えていない場所がある、ということだった。
「まあ」
基樹が問題集を閉じずに言う。
「知りたいなら、追いかければいいんじゃね?」
「簡単に言うな」
「今も追いかけてるだろ」
「それはそうだけど」
彩音がノートを指した。
「じゃあ、そのためにも現実に戻って」
「……はい」
「テスト落ちたら、追いかける前に沈むよ」
「先生、言い方がきついです」
「事実です」
「はい」
基樹が笑う。
「怒られてばっかだな」
「お前も勉強しろ」
「してるしてる」
「基樹も手、止まってる」
彩音がすぐに言った。
「え、俺も?」
「二人ともです」
彩音の視線が、俺と基樹をまとめて刺した。
逆らえない。
三人で、またノートに向かう。
年号。
人物名。
用語。
覚えることは多い。
正直、頭はまだ追いついていない。
けれど、ペンを動かしながら、思う。
(今は追いかけるだけだ)
知らないことがあるなら、知ればいい。
足りないなら、積み重ねればいい。
走ることも。
勉強も。
巴のことも。
全部、まだ途中だ。
「恒一」
「ん?」
「また止まってる」
「……今度は一秒だろ」
「止まったのは止まった」
「厳しい」
「はい、続き」
「はい」
もう一度、ノートを見る。
でも、“知らない何か”があるという感覚だけは。
少しだけ、それが胸の奥に残っていた。




