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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
すれ違い編

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第28話 同じ場所で

 グラウンド


 グラウンド、夕方の光の中。


 俺は、ラインの内側に立っていた。


(……入ったんだな)


 昨日まで外から見ていた場所。


 端の方で、邪魔にならないように走っていた場所。


 今は、同じ側にいる。


 それだけで、少しだけ不思議だった。


 見える景色が、少し違う。


 トラックの白いライン。


 土の硬さ。


 部員たちの声。


 誰かが走る足音。


 今までも見ていたはずなのに、今日はその全部が近かった。


「朝比奈、今日からこっちで準備な」


「はい」


 顧問に言われて、俺は返事をする。


「最初から周りと同じ量をやろうとするなよ」


「はい」


「返事だけはいいな」


「気をつけます」


 近くにいた先輩が、少し笑った。


「朝比奈、今日から正式参加だっけ」


「はい」


「よろしくな」


「よろしくお願いします」


 短いやり取りだった。


 大げさな歓迎ではない。

 拍手が起きるわけでもない。


 でも、その普通さが、妙に嬉しかった。


 ここにいていい。


 そう言われている気がした。


 準備運動を始める。


 足首を回す。

 膝を曲げる。

 肩を動かす。


 周りに合わせているつもりなのに、どうしても一拍遅れる。


 先輩たちは自然に流れていく。


 俺だけが、確認しながら動いている。


(……部活って、入った瞬間から走るわけじゃないんだな)


 そんな当たり前のことを、今さら思う。


 その中で、ふと巴が目に入った。


 遠くから見ていた時も、大きいとは思っていた。近くで話した時も、噂で聞く百九十近いという身長が大げさではないことは分かった。


 でも、こうして陸上部の中に立っていると、余計に分かる。


 巴は、たぶんこの部の中でも一番大きい。


 女子だけではなく、男子を入れても。


 ただ背が高いだけじゃない。手足が長くて、腰の位置が高くて、全体の線がまっすぐ通っている。


 大きいのに、重く見えない。


 どちらかといえば、すらっとしている。


 可愛いというより、綺麗で、凛々しい。


 動くたびに、体の全部が無駄なく繋がっているのが分かる。


(……そりゃ、山下先輩くらいしか並べなさそうに見えるよな)


 前に、巴が山下先輩を見ているのだと勘違いした時のことを思い出す。


 山下先輩も、大きかった。


 強そうだった。


 隣に立っても、たぶん絵になる。


 あの時の俺が焦った理由も、今なら少し分かる。


 巴は、それくらい目立つ。


 そこにいるだけで、周囲の空気が変わる。


 けれど、今はただ遠くから見ているだけじゃない。


 同じグラウンドにいる。


 同じ練習の流れの中にいる。


 それだけで、前とは少し違った。


「朝比奈」


 巴に声をかけられた。


 改めてその距離が、昨日までとは違う。


「緊張してる?」


「してない」


「してるでしょ」


「……少しだけだ」


「うん。少しだけじゃないね」


 巴が、ほんの少し笑った。


 馬鹿にしている感じではない。


 ただ、少し面白がっている顔だった。


「初日からそんなに固いと、走る前に疲れるよ」


「気をつける」


「あと、前向きすぎて転ばないように」


「そこまで心配されるのか」


「朝比奈、たぶんやるから」


「否定しきれないのが嫌だな」


 巴は、くすっと笑った。


 その笑い方が、前より少しだけ近く感じた。


「合格したんだ」


「ああ」


「ちゃんと届いたね」


 軽く言う。


「まあな」


 短く返す。


 でも、内心は少しだけ嬉しい。


 巴は、そんな俺を見て、少しだけ目を細めた。


「今、ちょっと嬉しそうだった」


「気のせいだ」


「気のせいじゃない」


「……そうか」


「うん」


 巴は、また小さく笑う。


「これで同じだね」


「……何が?」


「同じ場所」


 一瞬、言葉が詰まった。


(……ああ)


 そうか。


 外から見ているだけじゃない。


 遠くから追いかけているだけでもない。


 今は、同じグラウンドにいる。


 もちろん、それだけだ。


 同じ場所に立ったからといって、同じ高さにいるわけではない。


 同じ速さで走れるわけでもない。


 巴に追いついたわけでもない。


 でも。


「……そうだな」


 小さくうなずく。


「同じ場所だ」


「うん」


 巴は短く返した。


 それだけなのに、胸の奥が少し熱くなる。


 名前を覚えてもらった時とも違う。


 手紙を受け取ってもらった時とも違う。


 噂の中で、巴が違うと言ってくれた時とも違う。


 これは、もっと静かな変化だった。


 俺が、自分で走って。

 自分で届いて。


 この場所に立った。


 その結果として、巴が今、同じ場所だと言った。


 それが、嬉しかった。


「でもさ」


「うん?」


「まだ全然遅いけど」


「知ってる」


 巴は本当に遠慮がない。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 事実だからだ。


 俺はまだ遅い。


 フォームもまだ甘い。


 練習の流れにも慣れていない。


 ようやく入口に立っただけだ。


「知ってるならいい」


「そこは相変わらずだな」


「嘘ついても仕方ないでしょ」


「それはそうだ」


「でも」


 巴が、軽くトラックの方を見る。


「ちゃんと来たのは、いいと思う」


「……」


「入っていいって言われたから入るんじゃなくて、届いてから入ったんでしょ」


「ああ」


「それは、悪くない」


 悪くない。


 何度か聞いた言葉だ。


 でも、そのたびに少しずつ意味が違う気がする。


 最初は、ただ変なやつとして見られている気がした。次は、正面から来たことを見てもらえた気がした。


 今は、自分で決めたことを認めてもらえた気がした。


「……そっか」


「うん」


 巴は少しだけこちらを見る。


「これからだね」


「……ああ」


 迷いなく返す。


 その返事に、巴が少しだけ笑った。


「いいね」


「何が」


「その感じ」


「その感じって何だよ」


「ちゃんと前向いてる感じ」


 胸の奥に、また熱が残る。


 前を向いている。


 そう見えているなら、悪くない。


 いや、かなり嬉しい。


「でも、前ばっかり見て転ばないようにね」


「またそれか」


「大事でしょ」


「まあ、大事だな」


「うん。朝比奈は、たぶん早く先に行きたがるから」


「そこまで分かるのか」


「分かるよ」


「……そうか」


「だから、今日はちゃんと足元見なよ」


「分かった」


 巴は満足そうにうなずいた。


「じゃあ、私も戻る」


「ああ」


「初日から飛ばしすぎないこと」


「分かった」


「あと、サボらないこと」


「サボらない」


「無茶もしないこと」


「努力する」


「そこは断言しなよ」


「無茶はしない」


「よし」


 巴は軽く手を振って、持ち場に戻っていく。


 その背中を見ながら、俺は小さく息を吐いた。


(近づいたな)


 ほんの少し。


 でも確実に、距離が変わっていた。


 同じ場所に立っただけ。


 まだ、何も始まっていない。


 まだ、何も追いついていない。


 巴は遠い。


 速くて。

 強くて。


 まっすぐで。


 同じグラウンドに立っていても、その差ははっきり分かる。


 でも、その差が見える場所まで来た。


 遠くから見上げているだけでは分からなかったものが、近くにいるから分かる。


 速さも。

 強さも。

 大きさも。


 そして、少しだけ。


 優しさも。


「朝比奈、集合」


 先輩の声が飛ぶ。


「はい」


 俺は返事をして、足を動かした。


 気持ちを整える。


 同じ場所に立っただけだ。


 ここから基礎を積んでいく。


 ここから少しずつ慣れていく。


 ここから、ちゃんと走れるようになる。


 まだ何も始まっていない。


 でも、ようやくスタートラインだ。


 俺はグラウンドの土を踏みしめる。


 夕方の光の中で、白いラインがまっすぐ伸びていた。


 その先へ。


 俺は、ゆっくり息を吐いてから、一歩踏み出した。

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