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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
すれ違い編

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第27話 ただ前を向く

グラウンド


 翌日の再テスト。


 結果は――合格だった。


「よし、合格」


 顧問の声が、グラウンドに落ちる。


 一瞬、音が遠くなった気がした。


 息は上がっている。


 足も重い。


 けれど、胸の奥だけが妙にはっきりしていた。


(……届いた)


 前回、俺は基準に届かなかった。


 それでも、入っていいと言われた。


 でも、それでは駄目だと思った。


 ちゃんと届いてから入りたい。


 そう思って、もう一度走った。


 そして、今。


 合格した。


「朝比奈」


「はい」


「今日から正式に陸上部だ」


「……はい」


 短く返事をする。


 それだけなのに、喉の奥が少し詰まった。


「ただし、無茶はするなよ」


「はい」


「返事が早いやつほど信用できないんだよな」


「……気をつけます」


「よし。まずは基礎からだ。いきなり周りと同じ量をやろうとするな」


「はい」


 顧問はそう言って、記録用紙を閉じた。


 周りにいた陸上部の先輩たちが、軽くこちらを見る。


「お、入ったんだ」


「おめでと、朝比奈」


「これから大変だぞ」


 大きな拍手が起きたわけではない。


 騒がしい歓迎でもない。


 けれど、その何気ない声が嬉しかった。


「ありがとうございます」


 俺は頭を下げる。


 その時、少し離れた場所から声がした。


「合格したんだ」


 振り向く。


 巴が、トラックの端に立っていた。


 練習着姿で、腕を軽く組んでいる。


 夕方の光を受けて、表情は少し見えにくい。


 でも、声はいつも通りまっすぐだった。


「ああ」


「そっか」


 巴は短く言う。


「おめでと」


「……ありがとう」


 その一言だけで、胸の奥がまた鳴った。


 昨日、巴に言われた。


 顧問がもう一度見てもいいと言っている。


 受けるかどうかは朝比奈次第。


 だから、受けた。


 逃げずに。


 もう一度、ちゃんと走った。


 その結果を、今、巴が見ている。


「これで同じ部だね」


「そうだな」


「だからって、いきなり張り切りすぎないこと」


「分かってる」


「その返事、信用しきれない」


「顧問にも似たようなこと言われた」


「なら、相当信用されてないんだね」


 巴が少しだけ笑った。


 きつい言い方なのに、不思議と嫌ではなかった。


「でも」


「うん?」


「ちゃんと届いてから来たのは、悪くないと思う」


「……そっか」


「うん」


 巴はそれだけ言って、グラウンドの方へ視線を戻した。


「じゃあ、これからは部員としてよろしく」


「ああ」


「サボったら言うから」


「サボらない」


「無茶しても言うから」


「それは……気をつける」


「そこは断言して」


「努力する」


「またそれ」


 巴が呆れたように言う。


 けれど、その声は少しだけ柔らかかった。


■二年A組教室


 教室に戻ると、基樹がこちらを見た。


「おー、やったじゃん」


「ほんとに入部したんだ」


 彩音も少し笑う。


「まあな」


 短く返す。


 それ以上、大きな騒ぎにはならない。


 いつも通りの教室。

 いつも通りの二人。


 でも、俺の中だけは少し違っていた。


(……届いたな)


 それだけで、十分だった。


「で、ちゃんと合格してから入ったんだよな?」


「ああ」


「そこは偉い」


 基樹が真顔で頷く。


「珍しく段階踏んだね」


 彩音も言う。


「珍しくってなんだ」


「指輪事件のあとだと、どうしてもね」


「それはもう忘れてくれ」


「無理」


「無理だな」


 二人の声が揃った。


 俺は軽く顔をしかめる。


 でも、嫌ではなかった。


 からかわれている。

 心配されている。


 そして、少しだけ認められている。


 その全部が、今は悪くなかった。


「無茶はするなよ」


 基樹が言う。


「分かってる」


「その返事、前より少しだけ信用できるようになった」


「少しだけか」


「少しだけ」


 彩音が頷く。


「でも、ちゃんと自分で決めて、ちゃんと走ったんでしょ」


「ああ」


「なら、よかったんじゃない?」


「……そうだな」


 俺は小さく息を吐いた。


 よかった。


 たぶん、本当に。


■グラウンド


 翌日の放課後。


 グラウンドに出る。


 昨日と同じ場所。


 でも、少し違う。


(ここに立っていい)


 そう思えるだけで、景色が変わった。


 今までだって、ここで走っていた。


 端の方で、邪魔にならないように。


 それでも、どこかで思っていた。


 ここは、陸上部の場所だ。


 俺は、まだ外側の人間だ。


 けれど、今日からは違う。


 俺は、正式にこの場所に立っていい。


 そのことが、思っていたよりも大きかった。


 グラウンドの土を踏む。


 足の裏に、硬さが返ってくる。


 風が吹く。


 夕方の空は、少しだけ赤い。


 部員たちの声が聞こえる。


 誰かがスタートの確認をしている。


 誰かがタイムを見ている。


 その中に、自分もいる。


 まだ、慣れない。


 でも、逃げたいとは思わなかった。


(やるか)


 足を動かす。


 フォームを意識する。


 腕を振る。

 呼吸を整える。


 スタートの姿勢を取る。


 地面を押す感覚を思い出す。


(まだ遅い)


 それは分かっている。


 巴には遠い。

 先輩たちにも遠い。


 今の俺は、ようやく入口に立っただけだ。


(でも)


 止まらない。


 昨日より、今日。


 今日より、明日。


 少しでも前に。


 それだけを考える。


 誰かに見せるためだけじゃない。


 褒められるためだけでもない。


(俺が、決めたから)


 巴に追いつきたい。


 最初は、それが理由だった。


 強くて。

 速くて。


 まっすぐで。


 そんな巴に、少しでも近づきたかった。


 でも、今は。


(それだけじゃない)


 自分で決めた。


 自分で動いた。


 自分で走った。


 そして、ちゃんと届いた。


 その感覚が、まだ体に残っている。


(悪くないな)


 小さく息を吐く。


 走り出す。


 一歩目。

 二歩目。

 三歩目。


 まだ硬い。


 まだ遅い。


 まだ無駄が多い。

 それでも、前に進んでいる。


 風が、少しだけ気持ちよかった。


 遠くで、巴の声が聞こえた気がした。


 たぶん、気のせいではない。


 同じグラウンドにいる。


 遠くにいた人が、まだ遠いまま。


 でも、同じ場所にいる。


 それだけで、前より少しだけ近く感じた。


 俺は、ただ前を向く。


 ここからだ。


 ようやく。


 本当に、ここから始まる。


 そう思いながら、俺はもう一歩、地面を蹴った。

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