第25話 先に伝える相手
学校・廊下
放課後の廊下を歩きながら、俺はふと思った。
(……言っとくか)
今回の件。
噂のこと。
教室の空気。
昨日まで、俺はずっと自分がどう見られているのかばかり気にしていた。
何を言えばいいのか。
どうすれば、余計に巴の名前を巻き込まずに済むのか。
そんなことばかり考えて、結局、自分では何もできなかった。
けれど、助けられた。
基樹にも。
彩音にも。
俺が変な方向へ行きそうになるたびに止めてくれた。
噂の時も、心配してくれた。
何も言えずにいた俺のそばにいてくれた。
(ちゃんと礼、言わないとな)
そう思って、俺は足を止めた。
振り返る。
後ろには、基樹と彩音がいた。
「なあ」
「ん?」
基樹が顔を上げる。
彩音も、少し不思議そうにこちらを見た。
「今回のこと、ありがと」
素直に言った。
基樹が少しだけ眉を上げる。
「……は?」
彩音も、ぽかんとした。
「急にどうしたの?」
「いや、だから」
俺は言葉を探す。
「心配してくれたし」
「ああ」
「止めてくれたし」
「うん」
「噂の時も、いろいろ気にしてくれただろ」
「まあ、それはそうだけど」
彩音は、そこで少しだけ眉を寄せた。
「ちょっと待って」
「え?」
「それ、順番違くない?」
順番。
その言葉で、俺は一瞬止まった。
基樹が、深くため息をつく。
「俺らより先に言う相手、いるだろ」
「……」
言葉が出なかった。
けれど、分からなかったわけじゃない。
むしろ、言われた瞬間に浮かんだ。
あの教室。
張り詰めた空気。
誰も声を出せなかった沈黙。
その中で、真正面から扉を開けて入ってきた姿。
巴。
俺が助けを求めたわけじゃない。
俺が庇ってくれと言ったわけでもない。
それでも、巴は来た。
違うことを、違うと言った。
噂でしょ、と言い切った。
勝手に誰かを悪者にするなと、真正面から言った。
俺ができなかったことを、巴はやった。
「……ああ」
俺は小さくうなずいた。
「そうだな」
「でしょ?」
彩音が、少しだけ笑う。
「私たちへのお礼はあとでいいよ」
「あとでいいのか」
「いいよ。逃げないし」
「俺も別に今じゃなくていい」
基樹が軽く手を振った。
「それより、先に言ってこい」
「……今からか?」
「今ならまだいるだろ。グラウンドか、部室の方か」
「たぶんね」
彩音が窓の外へ視線を向ける。
「巴、まだ練習してるんじゃない?」
「……」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
礼を言う。
それだけのことだ。
けれど、俺は教室で何も言えなかった。
目が合っても、ただ頷くことしかできなかった。
だから今度は、ちゃんと自分の口で言わなければならない。
「分かった」
俺は鞄を持ち直した。
「行ってくる」
「ちゃんと言えよ」
「分かってる」
「恒一の分かってるは、たまに信用ならないからな」
「そこまでか」
「そこまで」
基樹は真顔で言った。
彩音が小さく笑う。
「変に格好つけなくていいからね」
「じゃあ、どう言えばいい」
「普通に、ありがとうでいいんじゃない?」
「普通に」
「うん。今回はそれが一番大事」
普通に、ありがとう。
簡単な言葉だ。
でも、今の俺には少し重い。
それだけ、巴がしてくれたことは大きかった。
「……行ってくる」
もう一度そう言って、俺は走り出した。
廊下を抜ける。
階段を駆け下りる。
途中で何人かの生徒がこちらを見たが、気にしている余裕はなかった。
(ちゃんと言う)
伝える。
さっき言えなかった分も。
昨日から飲み込んでいた分も。
今度は、俺が逃げない。
(ちゃんと)
足が、少しずつ速くなる。
向かう先は――グラウンド。
夕方の光が、廊下の窓から差し込んでいた。
その光の向こうで。
巴が、まだ走っている気がした。




