第23話 真っ直ぐな言葉
二年A組教室
教室の空気は、まだ張り詰めていた。
誰も、すぐには動けなかった。
西園寺さつきも。
その周りにいた女子たちも。
基樹も、彩音も。
そして、俺も。
巴が、二年A組の教室に来た。
俺に向けられていた噂を、違うと言った。
朝比奈はそんなことをしていない。
噂でしょ、それ。
だったらやめて。
その言葉だけで、教室の空気は変わり始めていた。けれど、巴はまだ教室を出なかった。
扉の方へ向かいかけた足を、ふと止める。
そして、もう一度だけ口を開いた。
「……まださ」
静かな声だった。
でも、教室の誰もが聞いていた。
「私、あいつのこと、そんなに知らないよ」
小さく空気が揺れる。
あいつ。
たぶん、俺のことだ。
胸が少しだけ強く鳴った。
巴は、教室全体を見た。
それから、まっすぐ言う。
「でもさ」
一度だけ、視線を巡らせる。
「盗撮とか、コソコソするタイプじゃないってことくらいは分かる」
教室が静まり返った。
誰も笑わない。
誰も軽口を挟まない。
「だってさ」
巴の声に、少しだけ熱が乗る。
「そんなことするやつが、人前で堂々とラブレター渡す?」
誰も答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
俺は、少しだけ目を伏せた。
思い出す、あの日。
グラウンドの端で、巴へ手紙を渡した。
中身は、たった一文。
――朝比奈恒一です。
名前を覚えてほしい。
それだけの手紙。
今思えば、かなり変だった。
でも、逃げなかった。
巴の前に立って、ちゃんと渡した。
「しかもさ」
巴が、ほんの少し口元を緩める。
「名前だけのやつ」
教室のどこかで、誰かが息を漏らした。
笑いそうになったのかもしれない。
でも、馬鹿にする笑いではなかった。
巴も、すぐに真剣な顔へ戻る。
「あれ、逃げてないでしょ」
その一言が、重かった。
俺が自分で言うより、ずっと重かった。
「あと」
巴は軽く腕を組んだ。
「陸上部のことも」
その目が、少し鋭くなる。
「ストーカーとか言ってるけど」
短く間を置いて。
「違うから」
はっきりと言った。
「朝比奈、入部許可出たのに断ったんだよ?」
教室がざわついた。
「え?」
「入れたの?」
「断ったって何?」
そんな声が広がる。
巴は、淡々と続けた。
「タイム、少し足りなかったからって」
少しだけ息を吐く。
「もう一回、ちゃんと受けたいって言った」
その言葉に、教室の空気がまた変わった。
昨日までの噂では、俺は巴を追いかけて陸上部に入りたがった男だった。
でも、そこには続きがある。
基準には届かなかった。
それでも、入っていいと言われた。
けれど俺は断った。
ちゃんと届いてから入りたいと。
それを、俺ではなく、巴が話している。
「ただ近づきたいだけならさ」
巴は、教室を見渡した。
「そのまま入ればよかったじゃん」
誰も何も言えなかった。
西園寺は唇を結んでいる。
周りの女子たちも、もうさっきのようには笑っていない。
巴の声が、少しだけ強くなる。
「でも、そうしなかった」
その言葉が、教室の中に落ちる。
「逃げないで、正面から来てるだけじゃん」
胸の奥が熱くなった。
違う、俺は、そこまで立派ではない。
迷っていた。
怖かった。
何度も立ち止まった。
噂からも、ちゃんと向き合えていなかった。
それでも、巴は、俺の行動の中から、逃げていなかった部分を見てくれていた。
「それをさ」
巴は言葉を続ける。
「勝手に変な方向に捻じ曲げて」
そこで少しだけ言葉を切った。
そして、静かに落とすように言った。
「……ダサくない?」
完全な沈黙。
怒鳴ったわけではない。
責め立てたわけでもない。
でも、その一言は、教室の中に深く刺さった。
西園寺の顔が固まっている。
周りの女子たちは、視線を逸らした。
誰かが、小さく呟く。
「……あれ?」
別の誰かが続いた。
「そういえば」
「入部、断ったんだ」
「じゃあ、無理やり近づきたいだけなら、入ってたんじゃない?」
「たしかに……」
ぽつり、ぽつりと声が変わっていく。
「盗撮もさ、見た人いるんだっけ?」
「……いや、聞いただけ」
「誰から?」
「分かんない」
「じゃあ……噂?」
さっきまでの決めつけが、少しずつ崩れていく。
噂がなくなったわけではない。
完全に信じてもらえたわけでもない。
でも、空気が変わった。
俺を見る目が、少しだけ揺れた。
断定から、疑問へ。
軽蔑から、戸惑いへ。
それだけでも大きかった。
巴は、それを確認するように一度だけ周囲を見た。
それ以上は何も言わなかった。
踵を返し、教室の扉へ向かう。
その途中。
一瞬だけまた、俺の方を見た。
目が合う。
何も言わない。
でも、その視線はまっすぐだった。
逃げるな、ちゃんと走れ。
そんなふうに言われた気がした。
俺は、ただ小さく頷いた。
巴がそれを見たかどうかは分からない。
彼女はそのまま教室を出ていった。
扉が閉まる。
残された教室は、さっきまでとはまるで違う空気になっていた。
誰も、もう笑っていなかった。
西園寺は俯いている。
周りにいた女子たちも、気まずそうに黙っていた。
基樹が、ゆっくり息を吐く。
彩音は、静かに俺を見ていた。
「恒一」
基樹が小さく言う。
「……すごかったな」
「ああ」
それしか言えなかった。
胸の奥が、まだ熱い。
巴は、俺を庇ったのかもしれない。
でも、ただ優しく庇ったわけではない。
違うことを違うと言い。
逃げていなかった部分を見てくれた。
それは、俺にとって何より重かった。
教室に残ったのは、戸惑いと、わずかな見直し。
朝比奈恒一という存在が。
少しだけ、変わり始めていた。
けれど俺は、その変化に甘えてはいけない。巴がまっすぐ言ってくれたからこそ。
次は、俺がちゃんと走らなければならない。
そう思った。




