第22話 続・沈黙と対峙
二年A組教室
――次の日の朝。
教室は、いつもより少しだけざわついていた。
昨日の噂が、まだ残っている。
いや、残っているどころか、形を変えて少しずつ広がっていた。
俺は席に座り、机の上の教科書を見ていた。
文字は、頭に入ってこない。
基樹は朝から何度かこちらを見ている。
彩音も、いつもより少しだけ静かだった。
何か言った方がいい。
昨日からずっと、それは分かっている。
でも、どう言えばいいのか。
何を言えば、余計に巴の名前を巻き込まずに済むのか。
それが分からなかった。
その時だった。
教室の扉が、勢いよく開いた。
バンッ、と乾いた音が響く。
一瞬で、教室の空気が凍った。
全員の視線が、扉へ向かう。
そこに立っていたのは――真田巴だった。
朝の光を背にして、巴はまっすぐ立っていた。
いつも通り、姿勢がいい。
けれど、雰囲気が違う。
静かだった。
静かなのに、圧があった。
怒鳴っているわけでもない。
睨みつけているわけでもない。
それなのに、誰も声を出せなかった。
巴は、教室を一度見渡した。
それから、一歩踏み込む。
「西園寺」
名前を呼んだ。
教室の奥。
西園寺さつきが、ゆっくり顔を上げる。
「……巴様?」
少しだけ驚いた声だった。
けれど、すぐにいつもの調子に戻ろうとする。
「どうしたんですか?」
“様”をつけるその言い方。
敬意の形。
距離を保った、いつもの呼び方。
だが、巴はその距離を許さなかった。
一歩、近づく。
「それ」
短い言葉だった。
それだけで、西園寺の表情がわずかに揺れた。
「誰が言い出したの?」
「……なんの話ですか?」
西園寺が、少しだけ視線を逸らす。
巴は逃がさなかった。
「朝比奈が、私を盗撮してるって話」
直球だった。
教室が、完全に静まり返る。
俺は、息を止めた。
基樹も、彩音も、何も言わない。
いや、言えなかったのだと思う。
巴はさらに一歩進んだ。
「証拠、あるの?」
声は静かだった。
けれど、逃げ場がなかった。
西園寺が、少しだけ眉を寄せる。
「……巴様」
「何?」
「私たちは、巴様のことを思って――」
「思ってるなら」
巴は、その言葉を途中で切った。
「適当なこと広めないで」
はっきりした否定だった。
強く怒鳴ったわけではない。
でも、その言葉は教室の中にまっすぐ落ちた。
西園寺の顔が固まる。
周りにいた女子たちも、誰も笑わなかった。
「私、見てたけど」
巴は続けた。
「朝比奈は、そんなことしてない」
空気が揺れた。
その一言だけで、教室の重さが変わった気がした。
昨日まで好き勝手に形を変えていた噂が、そこで初めて止まる。
当事者が言った。
真田巴本人が、違うと言った。
それは、俺が何かを言うよりもずっと重かった。
「……でも」
西園寺が、かろうじて口を開く。
「他に見てたって人が――」
「誰?」
巴は即答した。
逃がさない。
教室が、また静まる。
誰も名前を出せなかった。
西園寺も。
周りの女子も。
目を伏せた。
それが答えだった。
巴は、少しだけ息を吐く。
「噂でしょ、それ」
淡々としていた。
「だったら、やめて」
強くもない。
荒くもない。
でも、はっきりと言い切った。
教室の中に、沈黙が落ちる。
さっきまで、勝手に形を変えて広がっていた噂。
それが、巴の言葉で一度止められた。
誰もすぐには口を開けない。
西園寺も。
その周りにいた女子たちも。
基樹も、彩音も。
そして、俺も。
「……巴様は」
小さな声で、西園寺が言う。
「朝比奈のことを庇うんですか」
教室の空気が、また張りつめる。
巴は少しだけ黙った。
それから、静かに答える。
「違うことを、違うって言ってるだけ」
その一言は、巴らしかった。
誰かを甘やかす言葉ではない。
誰かに媚びる言葉でもない。
ただ、間違っているものを間違っていると言っただけ。
それが、今の俺にはたまらなく重かった。
西園寺は、何も言い返せなかった。
周囲の女子も黙っている。
教室全体が、完全に静まり返っていた。
巴は、そこで初めてこちらを見た。
ほんの一瞬。
目が合う。
俺は、何も言えなかった。
(……なんで)
胸の奥が、熱くなる。
(この人は)
昨日、俺は黙った。
言い訳をしなかった。
それを強さだと思おうとした。
でも、巴は違った。
黙るのではなく、言った。
違うことを、違うと。
逃げずに。
まっすぐに。
俺ができなかったことを、この人はやった。
しかも、自分の名前が噂に巻き込まれることを承知で。
巴は、すぐに視線を外した。
そして、西園寺へ向き直る。
「西園寺」
「……はい」
「私を応援してくれるのは、ありがたい」
西園寺の肩が、わずかに揺れた。
「でも、私のためって言って、誰かを勝手に悪者にしないで」
その言葉に、西園寺は唇を噛んだ。
巴は、それ以上責めなかった。
けれど、教室を出ていくこともしなかった。
扉の方へ向かいかけた足を、ふと止める。
まだ、言うことがある。
そんな空気だけが、教室に残った。
誰も動けない。
誰も、声を出せない。
俺もただ、巴の背中を見ていた。
その沈黙の中で、巴はもう一度だけ、口を開こうとしていた。




