第21話 沈黙と対峙
噂は、止まらなかった。
むしろ、少しずつ形を変えていった。
最初は、俺が巴を見ているという話だった。次に、追いかけているという話になった。
その次は、陸上部に入ろうとした理由まで、悪い方向に歪められた。
そして、今日。
「今度はさ、盗撮だって」
「え、マジで?」
「写真撮ってたらしいよ」
教室の中で、そんな声が聞こえた。
俺は席に座ったまま、ノートを見ていた。
字は、ほとんど頭に入ってこない。
「巴様のこと、こっそり撮ってたって」
「うわ、さすがにやばくない?」
「でも、ずっと見てたんでしょ?」
「じゃあ、やってそう」
ありもしない話が、勝手に輪郭を持っていく。
誰かが言った。
誰かが足した。
誰かが笑った。
そうして、俺の知らない俺が、教室の中に作られていく。
(……そこまで来るか)
思ったより、冷静だった。
いや、冷静というより、どこか感覚が鈍っていたのかもしれない。
ストーカーと言われた時点で、かなりきつかった。
それでも、まだ耐えられた。
でも、盗撮となると話が違う。
していない。
当然だ。
巴の写真なんて撮っていない。
そもそも、そんなことをしようと思ったこともない。
けれど。
(言ったところで、どうなる)
証拠はない。
やっていない証明なんて、どうすればいいのか分からない。
スマホを見せればいいのか。
履歴を出せばいいのか。
でも、それは何か違う気がした。
疑われたから、全部見せる。
それで潔白を証明する。
たしかに、現実的にはそういう手もあるのかもしれない。
でも。
(巴は、そういうの望まないだろ)
巴は、俺にそんな姿を見てほしいだろうか。
噂に怯えて。
必死に言い訳して。
自分は悪くないと騒いで。
周りの視線を気にして、慌てて逃げ道を探す。
それは、なんだか。
逃げているみたいだった。
みっともない気がした。
(男らしくない)
そう思った。
だから、俺は何も言わなかった。
机の上のノートを見つめたまま、黙っていた。
「いや、さすがにそれは違うだろ」
声を上げたのは、基樹だった。
少し離れた席から立ち上がり、周囲を見た。
「写真撮ってたって、誰が見たんだよ」
「え、いや」
「そういう話があるって」
「話じゃなくて、証拠あんのかって聞いてんだよ」
基樹の声には、明らかに怒りが混じっていた。
彩音も、隣で静かに口を開く。
「噂だけで言い切るのは、さすがにまずいと思うよ」
「でも、実際ずっと見てたんでしょ?」
「見てたことと、写真を撮ったことは別でしょ」
「怪しいのは事実じゃん」
「怪しいって思うのと、やったって広めるのも別」
彩音の声は落ち着いていた。
けれど、そのぶん強かった。
教室の空気が少しだけ変わる。
ただ、噂というものは、簡単には止まらない。
「でもさあ」
「何も言わない方も悪くない?」
「そうそう。違うなら違うって言えばいいじゃん」
「言えないってことは、そういうことじゃないの?」
視線が集まる。
俺に。
じっとりとした視線。
好奇心。
疑い。
軽蔑。
面白がっている目。
全部が混ざって、重くなる。
「恒一」
基樹が俺を見た。
「お前も何か言えよ」
「……」
「このままじゃまずいって」
分かっている。
まずいのは分かっている。
でも、言葉が出なかった。
違う。
俺はやっていない。
そう言うだけなら簡単だ。
でも、その後に何が続く。
信じるかどうかは相手次第だ。
俺が必死になればなるほど、怪しく見えるかもしれない。
そして何より、ここで騒げば、巴の名前がさらに広がる。
真田巴が、俺に盗撮されたかもしれない。
そんな話が、さらに強く残る。
それは嫌だった。
自分の噂より、それが嫌だった。
「……いい」
俺は短く答えた。
基樹の顔が固まる。
「よくねえだろ」
「いいんだよ」
「よくないって言ってんだろ!」
基樹が声を荒げた。
珍しい。
本当に怒っていた。
「お前が黙ってたら、好き勝手言われるだけだぞ」
「分かってる」
「分かってるなら言えよ!」
「言ってどうする」
「どうするって」
「違うって言えば、消えるのか」
「……」
「証拠がないって言えば、納得するのか」
基樹が言葉に詰まる。
俺は、机の上で拳を握った。
「それで真田の名前がもっと出るなら、俺は嫌だ」
教室が少し静かになった。
彩音が、こちらを見ている。
何かを言いたそうだった。
でも、言わなかった。
基樹は歯を食いしばる。
「だからって、黙って殴られていい理由にはならねえだろ」
「殴られてるだけなら、俺で止まる」
「止まってねえよ」
基樹の声が低くなった。
「もう真田さんにも向いてるだろ、その噂」
「……」
「お前が黙れば黙るほど、周りは勝手に話を作るんだよ」
その言葉は、痛かった。
分かっていた。
でも、真正面から言われると、逃げられない。
けれど、沈黙。
その沈黙が、逆に火をつけた。
「やっぱり怪しいじゃん」
「何も言わないし」
「黒でしょ」
「基樹たちが庇ってるだけじゃない?」
「彩音も幼馴染だからでしょ」
笑い声が広がる。
さっきより、少し大きい。
基樹の顔がさらに険しくなる。
彩音も、初めて少しだけ苛立った顔をした。
(……まあ、そうなるか)
分かっていた。
沈黙は、強さではない。
少なくとも今この場では。
黙って受け止めることと、何もできないことは、見た目が同じだ。
俺は受け止めているつもりだった。
でも周りから見れば、ただ認めたように見えるのかもしれない。
それでも。
(それでもいい)
自分で選んだ。
巴に近づこうとした。
陸上部に入ろうとした。
噂が出る可能性を、ちゃんと考えられていなかった。
だから、これは自分で受け止めるべきものだ。
その、はずだった。
「恒一」
彩音が静かに呼んだ。
「それ、本当にいいと思ってる?」
「……」
「巴のために黙ってるつもりなら、たぶん違うよ」
俺は顔を上げた。
彩音はまっすぐ俺を見ていた。
「噂は、放っておいたら勝手に広がる」
「……」
「恒一が黙れば、巴さんの名前も一緒に引っ張られる」
返せなかった。
言葉が、胸に沈んでいく。
「だから」
彩音は言う。
「黙るのが誠実とは限らないよ」
その一言で、何かが止まった。
誠実。
また、その言葉だった。
約束を守ること。
相手を困らせないこと。
逃げないこと。
ずっと、そう思ってきた。
でも、もしかすると。
今の俺は、それを理由にして、何もできないことをごまかしているだけなのかもしれない。
「……」
俺は、机の上の拳をゆっくり緩めた。
教室のざわめきは、まだ続いている。
基樹は怒っている。
彩音は見ている。
周囲は笑っている。
俺は、その中でようやく気づいた。
沈黙は、逃げないことではない。
沈黙したままでは、誰も守れない時もある。
受け止めるつもりだった。
でも、受け止めているだけでは、歪められた視線は止まらない。
そして、その視線の先には。
俺だけでなく、真田巴もいる。
そのことに気づくのが、少し遅すぎた。




